中国指導部の路線転換 ―習近平の権力闘争敗退もしくは重体・死去の可能性と、集団指導体制への回帰―
はじめに
三中全会(中国共産党第20期中央委員会第3回全体会議、7/15-18)の会期中に、中国共産党の深奥で何かが起きた模様です。状況証拠をつなぎ合わせると、かなり確度の高い話と判断しましたので、急遽本稿を書き上げました。以下に述べるように、習近平は何らかの大きなダメージ(肉体的または政治的な)を受けて、1ヶ月前の人物とは別人になっています。それにより、党の政治局の面々も「ポスト習近平体制」に向けた行動、政策のシフトを強めてきています。
これまで広く流布していた強権、極権、独裁といった強面の習近平のイメージは過去のものになっていますが、ほとんどの論者は今も、1ヶ月以上前までの習のイメージを引きずったまま論評を続けています。
事態がこのまま推移した場合に、場合によってはやがて「習近平主席の動静不明」という記事が各種のニュース媒体に踊ったのちに中国当局から何らかの重大発表がなされるか、そうした前触れのないまま、習の任期途中での退任ないしは解任が公表される可能性があります。あるいはすでに彼は路線闘争に敗退していて、集団指導体制を受け入れる代わりに残りの任期の期間を務めるという取り引きがなされているのかもしれませんが。
4日間に及んだ三中全会の後半で、習近平は2回の会議を欠席し(その片方は半日に及んだ討論セッション)、また閉会式にも姿を見せなかったといいます ※1)。習近平はすでに亡くなっているか、意識不明または意思表示の困難な重体にあるか、三中全会でフロアから批判の十字砲火を浴びて権力闘争に敗れ、権限を大幅に制約されている(従来のように独断的には権力を行使しない誓約をしている)かのいずれかであると思われます。仮に亡くなっている場合でも、彼が脳卒中などで倒れたと噂されている大会初日の7/15日や2日めの16日の夜ではなく、公式に発表される死去の日付は意図的に改竄されて後ろ倒しにされることでしょう(復帰の見込みがある場合には、プーチン氏が国内でよくやっているように、そっくりさんの替え玉を立てるが、復帰の見込みがない場合には、いつまでも隠しおおせるものではないことから、日付はごまかすにしても事実は公表するという判断が指導部に働く)。その場合にはこの秋に、次の国家主席を選出するための臨時の党大会の開催が必要になるかもしれません。
あらかじめお断りしておきますが、本稿は断片的にウェブ上に存在する記事をつなげて推論しただけの、いうなれば憶測記事です。彼の健在が確認された場合には、すみやかに非を認めて撤回するつもりですが、真相を言い当てていた場合には、本稿は世界で初めて体系的に、北京の奥の院で最近起きた事態の全容と現在の中国の権力構造について分析した論考となることでしょう。
※注1) 実際に、公表されている画像は開会式のみで、習が不在だったとされる閉会式のものは流布していない。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82147?page=3 他。
1. フェイクニュースの存在
今日では、大マスコミのニュースを見ずに、好みのSNS上に現れる真偽のほどの分からない記事を真に受けて暮らしている人は膨大な数に上りますので、「すわ、一大事 !」とばかりフェイク画像に飛びついて時間を空費する方もおられることでしょうから、あらかじめ以下のフェイク画像について注意を促しておきます。
広くウェブ上に流布しているこの画像は、それ自体は捏造ではありませんが、フェイクです。左上から時計回りに見てゆくと、飲料に手を伸ばした習主席が席から転げ落ちたように見えますが、2枚めはお茶にむせた渋面、3枚めの画像は開催前または休憩時に、会場のスタッフが席を確認している様子を写したもので、上の2枚とは直接のつながりはありません。
またこの個々の画像自体が、3月に開催された全国人民代表大会のさいのもので、今回の三中全会のものではありません ※2)。
※ 注2) この検証は、日本ファクトチェックセンターによるもの(https://news.yahoo.co.jp/articles/4d2c882472d294acf26617d6ea054430a4ca53c3)。
なお本稿冒頭の画像もまた、上掲の
https://www.freiewelt.net/nachricht/hatte-xi-jinping-einen-schlaganfall-10097249/#google_vignette によるものである。
2. 権力の空白
いうまでもなく、ここからが本題です。3期めに入った習政権では、これまでの30年以上にわたり保たれてきた法や慣行がいとも簡単に変更されることが常態化していますが、今期の経済政策を占う場である三中全会以来の事態はこれまた異例中の異例のものといえます。
周知のように、中国の現指導部は「核心」と称する習近平主席を扇でいえば「要」とする構成となっています。共産主義青年団(団派)や江沢民派といった対抗勢力は7人からなる政治局常務委員から完全に排除された一方で、「習派」というものは実際には存在せず、福建省厦門や浙江省杭州、上海市といった、習近平がトップを務めて党中央へとステップアップしていった地方の政府や党組織の時代のお気に入りの部下の寄り合い所帯なのです。全体としての結束力は弱く、習近平その人に何かがあったときには、現在の指導部を取りまとめることのできる人物は存在せず、さまざまな勢力がばらばらに動き出して分裂してゆかざるをえない構造になっています。そして今まさにそれが進行していると仮定すれば、現在起きている異様な事態の説明はすべてつきます。
以下、先月中旬来の出来事の生じた順に述べてゆきましょう。
2.1 新華社特別稿の撤回
以下はいずれも状況証拠になりますが、新華社(国営の通信社)がおりしも三中全会の初日の7/15日に配信した、長文の特別稿「改革家习近平」(改革者習近平)※3)が、まだ会期中だった配信のわずか1日後に取り下げられるという異例の出来事が起こります。この記事は主席を礼賛する内容の、いうなれば提灯記事で、鄧小平の路線を引き継いだ改革開放を超える「改革」思想として、2022年10月の党大会で提起された「中国式現代化」※4)を位置づけることで、政策的に新味のないことが開催前からあきらかだった三中全会に対する援護射撃を行い、大方を納得させるために周到に用意された原稿でした。
この撤回をめぐっては、当時すでにいくつものウェブ上の記事で論じられていました ※5)。
※ 注3) 今も読める全文は、記事の配信先の一つである香港紙『文匯報』(https://www.wenweipo.com/a/202407/16/AP669584b7e4b096aa108845f8.html)である。
※ 注4) この前提になるのが「中国の特色ある社会主義」であるが、両者は論理的に同義反復に近いので、その内容は空疎である。政治局常務委員にまで上り詰めた理論家の王滬寧が、この時の党大会で総書記として異例の3期めを迎える習の求めにより、3期めを飾るにふさわしい華々しいスローガンとしてひねり出したものと思われる。
※ 注5) たとえばhttps://toyokeizai.net/articles/-/782663
この筆者は差し替えの理由について「トーンが強すぎて本人のお気に召さなかったのか、現在は削除されている」としている。
また本稿の投稿(8/24)以降に現れた、新華社の配信取り下げに関する分析記事として、日経の前中国総局長 中沢克二による以下の記事(8/28)がある。例によってこの筆者独特の、誰かしらの内部の情報源の存在を暗示しつつ、どこまでが伝聞でどこからが憶測なのか境界をぼかした筆致ではあるが、「改革家習近平」に関しては「完全になかったことにされ、結果的に打倒された」としている(8/28追記)。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD251UA0V20C24A8000000/
2.2 解放軍機関紙の論評
7月27日、人民解放軍機関紙『解放軍報』は、一般紙の社説に相当するその二面の「強軍論壇」において、「党内政治生活の低俗化は戒めるべき」との論評を掲載します。そこには、「いま、個別なところでは党内政治生活が正常さを失い、個人は党組織の上に凌駕し、家長制的なやり方で、鶴の一声で物事を決めるようなことが起きている」※6)と記されていました。
これは軍の範疇を越えて、現在の党のあり方に対する越権ともとれる論評・批判であり、特定個人の名指しを避けて一般化した形で個人の強権について論じていますが、毛沢東時代の反省を忘れ、個人崇拝に戻るかのような権限の集中を進めてきた習近平その人に対する痛烈な批判であり、これまでの習体制が強固であった時代には到底考えられなかった事態です。この間に習個人ないしは指導部が、従来党の内外に有してきた力を何らかの理由で失い、党内外の組織なりグループが、短期間のうちに相当自由にものが言えるようになったことを示しています。
換言すれば人民解放軍は、中央軍事委員会の副主席で制服組トップの長老、張又侠の指示にしたがって動くようになり、文官(党人)である中央軍事委員会主席の習近平からは、まさに「解放」されたことを意味します。
※注6) 石平訳(https://gendai.media/articles/-/134750?page=4)。この筆者は解放軍報の論評に対して、「軍ぐるみのささやかな「造反行為」である可能性」があるとしているが、問題を矮小化しすぎていよう。
2.3 軍管区人事
7月31日に報じられたところによれば、南部戦区で王秀斌上将(60歳)が司令官を解任され、第20期(今期)中央委員で22年から中部戦区の司令官の任にあった呉亜男上将(62歳)が起用されていたことがあきらかになります ※7)。この人事異動はこの日まで報道されておらず、また司令交代の理由も不明なままです。南部戦区司令だった王秀斌の消息については、まったく分かっていません。王氏の前任者2人は、事実上の定年である65歳で退任していましたから、この異動が通常の退任ではなかったことはあきらかです。王は習近平の腹心として知られていました。
また北部戦区司令には、元中部戦区司令でやはり第20期中央委員の黄銘が着任します。中部戦区司令については、一部報道では元北部戦区司令で、第20期中央委員の王強が中部戦区司令に着任するとされていましたが、そうは発表されず、王強の身柄が現在どうなっているのかについてもあきらかではありません。
三中全会後に突然、国内の五大戦区のうち北部戦区・中部戦区・南部戦区の司令が異動になっていたのでした。交代はあきらかに戦区単位で戦力の一時的低下を招くにもかかわらず、過半の戦区で一斉に異動を行うというのは異常な事態で、粛清人事とも、軍内部でのクーデターの勃発かとも取り沙汰する向きがあるほどです ※8)。
これまた、前項に述べた軍の自律性回復の現れと考えられます。文官である習近平中央軍事委員会主席によって押し付けられていた主要ポストの人事が、オセロゲームの駒のように、にわかに覆されていっているのです。
同じ日の18時に、人民解放軍の建軍97周年の記念レセプションが開催されました。国防相がスピーチしただけで、そこに習主席の姿がなかったことを記している記事が見受けられますが、このレセプションには従来も5の倍数の区切りの年にしか指導部の臨席はありませんので、昨年並みであり ※9)、ことさら変事を告げるものではありません。
※ 注7) https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-08-01/SHIT9RT0AFB400
※ 注8) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82699?page=2
※ 注9)
https://haokan.baidu.com/v?pd=wisenatural&vid=598160098830022503
2.4 国務院会議の変
同じ7月31日、習主席の浙江省勤務時代からの忠実な秘書役として知られた李強首相が、自身の主宰する国務院会議で、習近平の影響をあからさまに脱した振る舞いをします。
この会議は、前日の7月30日開催の中央政治局会議で、習近平が行った「重要講話」である「当面の経済情勢と下半期の経済工作」を承けたもので、もともとは「当面の経済情勢と下半期の経済工作に関する習近平総書記重要講話を学習する」と銘打たれていました。ところが『人民日報』で公表された実際の国務院会議の具体的内容には、習近平の名前と「習近平講話」に対する言及は皆無で、「党中央」を主語に据えて、「党の三中全会精神の学習・貫徹」をテーマとするものになっており、会議の題名と会議で強調されて公表された内容にあきらかな乖離が生じていたのでした ※10)。
注目すべきは、この「党の三中全会精神」とは何かということです。国務院会議の開催と内容については、過去の二期の習政権の先例を踏襲して三中全会前から決まっていたものと考えられ、ここでも三中全会前とはあきらかに情勢が変わってきていることが看て取れます。
※ 注10)
http://politics.people.com.cn/n1/2024/0731/c1024-40289881.html
三中全会直後の7/19日時点での国務院党組織会議も同様に、全会での習近平総書記の重要講話を学習すると銘打たれており、本文中で「全会精神」が2回用いられていたのに対して、「習近平総書記の重要講話の精神」「習近平思想」という語がそれぞれ1回ずつ用いられ、まだ習への言及があったことから、この間の十日ばかりで情勢は一段と集団指導の方向に傾いたことが看て取れる(http://cpc.people.com.cn/n1/2024/0720/c64094-40281647.html)。
なお8/29日づけ『産経新聞』の石平記事「北戴河会議 何が起きたのか」では、7/31に続く8/16日の国務院会議に関する『人民日報』報道でも同様に、「会議は党の3中総会の精神と中央政治局会議・政治局常務委員会議の精神を深く学び、党中央の精神を持って思想の統一・意思の統一・行動の統一を図るべきことを強調する」(石平訳、原文ママ)とあることを紹介し、「習近平」や「習近平思想」が抜け落ち、主語が「党中央」に入れ替わっていることを指摘している。注6にも述べたように、氏は北戴河会議以前には三中全会に始まる中共中央の情勢変化を軽視しており、北戴河会議を経てようやく異変に気づいたようで、この7/31の国務院会議への言及はない(8/29日追記)。
2.5 党機関誌『求是』による鄧小平礼賛
8月16日に刊行された機関誌『求是』に、鄧小平を称える「把邓小平同志开创的中国特色社会主义伟大事业不断推向前进 」(鄧小平同志が始めた中国の特色ある社会主義の偉大な事業を前進させる)と題する「中共中央党史ならびに文献研究院」による論文が掲載され、その意図について注目を集めます ※11)。
この雑誌は毎号の巻頭に必ず習総書記の論文が掲載され(スターリン以来の社会主義国の慣例で代作)、それに続く複数の論文が習論文をなぞる形で追従し、さらにそれ以外で習政権の掲げるテーマ(中国式現代化、高質量発展等)を掲げた論文も掲載されるという毎回決まったフォーマットで、近年はたまに毛沢東を顕彰する論文が載る程度でしたので(習は毛の権威に自身を重ね合わせようとしているので、こちらについては注目を惹かない)、どよめきをもって受け止められました。
※ 注11) http://www.qstheory.cn/dukan/qs/2024-08/16/c_1130192041.htm
2.6 習近平の動静の報道の激減をめぐって
三中全会の会期の最終日の7月18日に公表された「公報」(コミュニケ)には「習近平」という語は3回、閉会後の21日に公表された2万2000字あまりの「決定」においても、3回しか用いられておらず、代わりに「党」という語が「公報」で31回、「決定」で21回、「党中央」という語が「公報」で3回、「決定」では1回だけ用いられています。「習近平新時代中国特色社会主義思想」(いわゆる「習近平思想」)という語は「公報」でも「決定」でも1回だけです ※12)。昨23年2月に開かれた二中全会のより短い公報では、「習近平新時代中国特色社会主義思想」が4回、「習近平」という固有名詞に至っては8回も用いられていました ※13)。
三中全会閉幕以降の2週間、新華社・人民日報・環球時報・解放軍報・中央テレビといった主要な共産党系メディアでの習近平に関する報道は大幅に減少しています。時には実力の伴わない彼の番頭で国務院総理(首相)の李強に関する報道の頻度が習近平の報道を上回ることさえあり、いかに北戴河会議の期間中であったとはいえ、これまで考えられなかった事態となっているのです ※14)。
くわえて8/20日に党務担当の政治局常務委員で序列5位の蔡奇は、中央・地方の幹部を集めて、「形式主義の是正について」と題するオンラインの会議を主宰します。蔡は米中首脳会談でも習主席の隣に座る、側近中の側近として知られています。『人民日報』によれば会議の冒頭で蔡はやはり、「党の三中全会精神」を深く学んで日常業務上の形式主義を是正するように呼びかけますが、ここでも習近平思想への言及は一言もありませんでした ※15)(8/29日追記)。
※ 注12) それぞれの出典は、
https://www.gov.cn/yaowen/liebiao/202407/content_6963409.htm
https://www.12371.cn/2024/07/22/ARTI1721605206529310.shtml
※ 注13) この出典は、
https://www.gov.cn/xinwen/2023-02/28/content_5743717.htm
この問題に関する代表的な論考として、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82147。この筆者はここで用いられた字句の選択について、「こうした決定は、習近平が独断で行ったのではなく、党中央として採択したのだ、ということを強調するようにも読み取れる」と説明しているが、その背景こそが真の分析の対象である。
「公報」では思想関連の箇所は「全会强调,进一步全面深化改革,必须坚持马克思列宁主义、毛泽东思想、邓小平理论、“三个代表”重要思想、科学发展观,全面贯彻习近平新时代中国特色社会主义思想,深入学习贯彻习近平总书记关于全面深化改革的一系列新思想、新观点、新论断,完整准确全面贯彻新发展理念,坚持稳中求进工作总基调,坚持解放思想、实事求是、与时俱进、求真务实,进一步解放和发展社会生产力、激发和增强社会活力,统筹国内国际两个大局,统筹推进“五位一体”总体布局,协调推进“四个全面”战略布局,以经济体制改革为牵引,以促进社会公平正义、增进人民福祉为出发点和落脚点,更加注重系统集成,更加注重突出重点,更加注重改革实效,推动生产关系和生产力、上层建筑和经济基础、国家治理和社会发展更好相适应,为中国式现代化提供强大动力和制度保障。」となっている(太字は筆者による、以下同じ)。
従来の「習近平思想」という単語は直接的には現れず、習近平の名は多くが死者である過去の指導者と同列に併記される形となっている。引用範囲に1回用いられている「中国式現代化」は、全体では21回も用いられており(二中全会ではわずかに1回)、「習近平」という個人名とは切り離された形で強調されているのは注目すべき点である。おそらく、原案では従来どおり「習近平新時代中国特色的社会主義思想」という長い字句が多用されていたものを、大幅に「中国式現代化」に置き換えたものと思われる。
また「決定」では「第一板块:总论」の箇所は、
「一、进一步全面深化改革、推进中国式现代化的重大意义和总体要求
(1)进一步全面深化改革的重要性和必要性。
坚持和完善中国特色社会主义制度、推进国家治理体系和治理能力现代化的必然要求
贯彻新发展理念、更好适应我国社会主要矛盾变化的必然要求坚持以人民为中心、让现代化建设成果更多更公平惠及全体人民的必然要求
应对重大风险挑战、推动党和国家事业行稳致远的必然要求推动构建人类命运共同体、在百年变局加速演进中赢得战略主动的必然要求深入推进新时代党的建设新的伟大工程、建设更加坚强有力的马克思主义政党的必然要求
(2)进一步全面深化改革的指导思想。
坚持马克思列宁主义、毛泽东思想、邓小平理论、“三个代表”重要思想、科学发展观
全面贯彻习近平新时代中国特色社会主义思想
深入学习贯彻习近平总书记关于全面深化改革的一系列新思想、新观点、新论断
完整准确全面贯彻新发展理念
更加注重系统集成,更加注重突出重点,更加注重改革实效」となっている。
こちらも「公報」と同様であり、「中国式現代化」は、全体では16回用いられている。
※ 注14) https://www.epochtimes.jp/2024/08/246525.html
北戴河会議とは、毎年8月前半に北京に近い避暑地、北戴河で開かれる非公式の集まり。建前は長老をご招待する「休暇」で、現役の指導部が重要政策や人事について長老らの意見を聞く場とされてきたが近年、習への権力集中とともに形骸化していた。
※ 注15) http://politics.people.com.cn/n1/2024/0820/c1024-40302697.html
2.7 サリバン補佐官と張又侠副主席との会談
8月29日に、北京を訪れたバイデン米政権の国家安全保障担当のサリバン大統領補佐官が、中国軍の制服組トップである中央軍事委員会副主席の張又俠と会談します。この役職の両者が会談するのは、2016年7月以来実に8年ぶりのことでした。習政権が2期めから3選を目指して強引な手法で強権化を進めて以降、習は自身で米側の国家安全保障担当の補佐官と会談し、中央軍事委員会ナンバー2の副主席を排除してきたのです※16)。
中国の制服組から見た対米関係は完全に元に戻ったことになります。これもまた中央軍事委における唯一の文官としての習主席の権力の顕著な低下を示していて、中国指導部内の何らかの理由でのパワーバランスの組み替えの現れです。
先の三中全会では、張が推して国防相に据えていながら、昨年10月に解任されていた李尚福 前国防相に対して党籍の除籍というきわめて重い処分が下される一方で、同年末に後任の国防相となった董軍(海軍の前トップ)の中央軍事委員への昇格が見送られます ※17)。物事を決めるために本来7名で構成されるべき中央軍事委員会は欠員が続いたままで、国防相が中央軍事委員会で無役という異例の事態になっています。これまた副主席の張が、習に近い董軍を忌避していることの結果でしょう(9/7日追記)。
※注16) 6年前の2018年6月(習体制の2期めの初期)に、米国防長官と張の前任者である中央軍事委副主席が会談したのが、中国側の制服組トップが米側の高位の国家安全保障担当者と会った最後となっていた。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD294QM0Z20C24A8000000/
※注17) 同上。
3. 謎解き
2.1の新華社特別稿の撤回について:
国家運営が厳しさを増す中、個人崇拝的なアプローチで突っ走ってきた習体制でしたが、習近平その人が存命でなくなったか、意識が戻らない、人前でまともに喋れないといった事態に陥って政治的にはすでに死んでいるとすれば、いずれ事実を一定程度公表せざるをえない以上、彼をことさらに押し立てた宣伝を続けることによって体制を安定させようとする従来のアプローチは不毛になります。そうした判断が指導部に働いたと考えるのが自然でしょう。
国家指導者には外交舞台がありますから、中国の場合、いつまでも国家副主席や首相に代理を任せておくわけにもゆかず、欠員が出ればいずれかのタイミングで新しい国家主席を決めなければ、他の大国と渡り合うことができません。
あるいは、会期の早い段階で、彼の身に異変が起きたのではないとするならば、彼個人なのか彼の指導部なのかが、三中全会の壇上で反対派から経済失政についてこっぴどくやり込められて、それに対して同調者が相次ぎ、従来の路線の放棄を余儀なくされたという可能性です。
悪化する一方の経済に対して、実効性のある対策を打ち出せないまま、主席の周りへの結束を訴え、「中国経済光明論」をひたすら唱えるというおまじないのような弥縫策によって人民のマインドの上昇を図ることだけでは、ついに乗り切りが図れなくなったのではないでしょうか。
2.2の解放軍機関紙の論評について:
2.2に述べたように、張中央軍事委員会副主席に率いられた軍の制服組は、党からの一定の自律性を得たとしか考えようがありません。それはこの場合に、中央軍事委員会主席であった習近平が政治的に不在となったか、彼の党内での立場が決定的に弱体化したということ以外にはないでしょう。すでに軍によるクーデター、まさに宮廷革命が、人民のあずかり知らぬところで遂げられている可能性も排除できません。
中央軍事委員会の副主席は、権力の移行期には次の国家主席が予定されている文官が就くのですが、彼が国家主席に就いて権力が安定すると、副主席は2人とも武官(最高軍位の上将)が就いてきました。このシステムは主席が任期中に欠けることを想定していないため、仮に今回のような事態が起こると、人民解放軍は党に対して自律性をもつようになります。党側から見れば、コントロールが効きにくくなって危険な状態に陥ってしまうのです。
2.3の軍管区人事について:
ちょうど1年前の23年8月以降、人民解放軍の高級将校が相次いで失脚したり、失踪したり、自殺したりしてきました。その中には戦略核ミサイルを管掌するロケット軍司令の周亜寧・李玉超や元国防相の魏鳳和・李尚福といった高官も含まれています。この2人の元国防相については、三中全会の直前になって、軍籍どころか党籍までもが剥奪されたことが発表されました。
三中全会に至る軍部の粛清は軍の掌握に不安を懐く習近平(人民解放軍は党の軍事部門であった経緯から、中央軍事委員会主席を兼ねる)の意向でなされてきました。三中全会を機に習近平が人事不省のような状況に陥っているか、あるいはさまざまな言質を取られて政治的に弱体化していると仮定すれば ※18)、それまで抑え込まれていた軍のナンバー2である制服組トップの張又侠上将(中央軍事委員会副主席)の意向によって、さっそく習が昇進させた高官を外す巻き返しが進められていると解釈することで、一連の軍の人事の説明はつきます。魏・李の2人は張によって引き上げられてきた人物とされているからです。
※ 注18) 三中全会の会場を見るに、完全な雛壇形式であることから、フロアからの攻撃だけでこのように決定的にやり込められるという展開には無理があり、フロアからの批判に呼応して同調する形で壇上の複数の政治局常務委員の離反があったと考えるのが自然である。
2.4の国務院会議について:
習主席の忠実な部下である李首相が、中央政治局会議からわずか1日で手のひらを返したというよりも、中央政治局会議ではすでに三中全会以前から決められていた線に沿う形で講話が公表されただけで、実際には習は会議の主宰などしていなかったとすれば、国務院会議の内容は、習の不在という現実を踏まえたものということで、これまた説明がつきます。これらに先行した三中全会にしても開会式の画像だけが報道されており、習が欠席していた後半の最後の閉会式には、もちろん彼の姿はなかったからです。
あるいは再三述べてきたように、結果と平仄の合う、より現実的な展開としては、機を見るに敏な李強は、従来の習を押し立てた権威主義的な路線で三中全会中盤以降の情勢を乗り切ることは不可能と悟って、予定されていた内容を大幅に改変して対応したということでしょう。「党の三中全会精神」という表現は、いかにも今回の三中全会を通じて醸成された、党中央のより民主的な気分を表しているといえます。
今回の三中全会は本来党大会の翌年の秋、今期であれば23年10月に開催されていなければなりませんでしたが、不動産市況の悪化から経済が悪くなりすぎて、開催するに開催できないと考えられてきました。今回の結果からすると、この間の延期の本当の理由は、指導部が経済政策の実績の悪さを批判されて党内での主導権を失うことを恐れていたということだったのかもしれません。
2.5 の『求是』による鄧小平礼賛について:
この論文は一方的に鄧小平の業績を顕彰したものではなく、叙述の早い段階から結論に至るまで、習近平の「新時代中国の特色ある社会主義」や彼を党の「核心」とすることと絡める形で論じられています。またこの8月の22日が鄧小平生誕120周年に当たっていたことから、この扱いについては割り引いて考える必要があるともいえます。
この鄧の生誕当日には、習総書記も参加して北京の人民大会堂で記念座談会が開かれましたが ※19)、この主催もまた党の中央委員会でしたから、習が何らかの理由で死に体となった、先の中央委の三中全会での流れを汲んだ催事であり、その前触れとしての上記の『求是』論文だったともいえます。実際に当該論文には、習への言及とともに「三中全会精神」「三中全会での展開」という言葉が踊っており、三中全会での何らかの展開(明示されていないが)を踏まえたものであることはあきらかです。
※注19) このさいの動画が公開されているが、全編アナウンサーが喋っているだけで肉声はない。
https://tv.cctv.com/2024/08/22/VIDEEAvpQrga8jPb6gS2mtjs240822.shtml
4. むすびに代えて ―習近平のミステリー―
さて、重病・死亡説を覆す事実が1つ残っていて、その存在が習の病気関連の推論を覆しています。それはベトナムの最高指導者、グエン・フー・チョン共産党書記長が三中全会閉幕の翌日に亡くなったことによって、にわかに外交の舞台が出来上がり、習主席が翌々日の7月20日に、北京のベトナム大使館を弔問に訪れたことでした。そのさいの報道の動画も残っており、少なくとも合成やAIによる映像ではありません ※20)。
それから7月末以降、20日間にわたって習は公の場に姿を現しませんでしたが、8月19日になって、ベトナムの新書記長の初の外遊としての北京公式訪問という新たな判断材料がこれに加わりました。
三中全会の会期後半以降の、中国中枢のさまざまなアクターによる従来よりも自由な振る舞いは、本稿第2節に見てきたように、あきらかに習近平の死、人命の死ではないにしても少なくとも「政治的な死」によってしか、統一的には説明がつきません。
ここでいう習の「政治的な死」とは、党内での集団指導体制への回帰や党内民主主義の重視、反腐敗闘争を通じた恐怖政治の放棄といったソフトな路線への転換であり、それは三中全会の壇上で追い込まれての自己批判に近い形での従来の路線の反省の表明や、党政治局内部での実質的な解任、あるいは水面下での人民解放軍によるクーデターを通じた権力奪取のいずれかによってもたらされたものであるはずです。
これ以上は今後の推移を観るほかないのですが、真相は限られていると思われます。
① 三中全会の日程の前半に習は倒れ、持病とされる脳動脈瘤などで実際には亡くなっているか、意識が戻らないか、発話や歩行が困難な状態にあり、党中央はおりを見て死期や引退の時期を公表するつもりで、対外的には替え玉(プーチンが用いている手法で、よく似た人相・体型の人物にさらに美容整形手術を施した身代わり)を用いている(発話だけが困難な場合には替え玉は用いていない可能性もある)。
実際に、中国CCTVの報道では動画の中で習近平の肉声は流されていませんし、大使館で弔慰を表す揮毫までしていますが、書いている間の手許は放映されていません。書は誰かが彼の字に似せて別途書いたものと差し替えることが可能でしょう。
さて8月19日のベトナム書記長の歓迎式典は午前中に行われましたが、中国側のメディアは当初、習の音声だけを流しただけで(ベトナム側は報じていた)、昼過ぎになって遠景の動画だけがようやく公開されます。夜になって放映されたクローズアップの動画に現れた習の姿はわずか2、3秒にすぎず(通常は少なくとも6秒)、それ以外は新華社が公開した加工の容易な静止画像のみです ※21)。またクローズアップの画像では、習近平の顔はむくんでいました(これまた噂されている肝不全の典型的な症状の1つ)。
中国側の報道規制の存在(党の中央弁公庁(この主任が先述の蔡奇)や中央宣伝部によるもの)と、何らかの健康問題なり ※22)、替え玉の使用が考えられ、疑いはますます深まる結果となりました。
② 長丁場の三中全会(党中央委員会の今回の会期で、メンバーは中央委員が2百名前後、候補中央委員が百数十名)でフロアから経済実績をめぐる厳しい突き上げがあり、主席以下、経済通の少ない現指導部では充分な反論ができずに追い込まれ、事態を収拾するために自派で固めた政治局常務委員からも呼応して仲裁に当たる委員が複数現れた。1)集団指導体制への回帰(過度の個人崇拝をしない)、2)党内民主の重視、3)反腐敗運動に基づく過度の摘発の放棄といった具体的な項目の要求を飲まされて言質を取られ、党内で従来のようには振る舞えなくなった。
③ 彼は多くが子飼いの部下からなる政治局常務委員の7名中の、自身を除く4名以上の共謀によって、経済の失策を批判されてすでに実質的には解任されているが、党中央は内外の混乱を避けるために退任の公表のタイミングを秋以降に引き伸ばしている。
中国では秋に党大会を開催して新しい総書記(書記長に相当する共産党のトップ)を選出し、3月に全国人民代表大会を開催して、その人物を国家主席に選出する必要があるからです。
④ 粛軍の人事が相次いできた人民解放軍の内部で、習の着任以来の過度の反腐敗運動の取締に対する反発が高まり、三中全会の直前または会期中に中央軍事委員会副主席の張又侠をトップに水面下で軍事クーデターが起こり、習はいったん身柄を軍に拘束されて、中央軍事委員会主席をすでに実質的には解任されているが、①③の場合同様に公表が先送りされている。
④の場合には、党と人民解放軍の従来の力関係はすでに逆転しており、発展途上国の軍政によくあるように党の権力は形骸化して、軍の意向にそって行政を監督するだけの機関になり下がっていることになります。この場合には、いずれ習が中央軍事委員会主席を退任して、張又侠がその地位に就いたという発表がなされるでしょう。中央軍事委員会主席は、鄧小平が最後まで手放さず、江沢民が国家主席退任後も数年居座ったポストであり、実は毛沢東亡きあとの中国において総書記よりも重要な権力の要なのです。
①③の場合には、いわゆる習派で固めた党の政治局常務委員の中から、ひとまず後継の総書記を決めて、上記の秋の党大会、春の全人代という流れで国家主席に担がなければなりませんが、リーダーシップを取れるだけの経験を積んだ人材は22年秋の時点で政治局や中央委員会から追いやられてしまっているので、暫定的なトップに留まるでしょう。次のリーダーが育つまでに数年を要しますが(団派のホープである胡春華を政治局に呼び戻すにしても通例であれば27年秋の党大会まで待たなければならない)、下記の拙著に2年以上前に論じたように、中国経済は不動産バブルの破綻の露呈によって、もはや誰が舵取りしたところでうまくはゆきません。本格的なリーダーが台頭する以前に、人民共和国自体が崩壊して新共和国ができることでしょう。日本の場合には「失われたx十年」という形でいたずらに年月を空費する中で国力が低下してゆきましたが、革命政権である中国の場合には、まず体制のご破算が起こります。
いずれの場合にも、誰が次の名目的なトップに収まったとしても以後は党も軍も集団指導体制となり、軍や政府を含めた国家中枢の複数の機構がその内部でも、また機構相互にもせめぎ合う形となって、国家は漂流し、経済がますます悪化してゆく中で、なす術もないでしょう。拙著に具体的にシナリオとして描き出したように、亡国に向かってゆくほかありません。
※ 注20) https://www.tiktok.com/@cmanews/video/7393680932957474078
※ 注21)
https://tv.cctv.com/2024/08/19/VIDEeX0lOjPKkH3xsLtLl4WE240819.shtml
https://news.yahoo.co.jp/articles/fc418322f56122fd7c04c402a8352acc9a9924c9
https://www.epochtimes.jp/2024/08/247653.html?utm_source=JNLnoe&src_src=JNLnoe&utm_campaign=jnl-2024-08-25&src_cmp=jnl-2024-08-25&utm_medium=email&pw_est=AjkOhkdfKtrhZ1RUGjNdUJUWY0xGJdhgfASAApNcUDxSScs2SwbXTWyVzyA%2F5krj2sOV7qL5uqvMnRaaww%3D%3D
※ 注22) https://www.epochtimes.jp/2024/08/247328.html
当該記事の筆者は、習近平のメディアへの登場があきらかに減っていることに関して、習が事態への責任を単独で負わないようにし、他の共産党高官を表に立てて、意思決定が集団でなされているというイメージを社会に植え付けようとしているとしている。習が依然として従来同様の権力を維持しているとの立場にたった解釈である。
関連して、SNS上での中国共産党のサイバースペース管理局による取り締まりが緩くなってきており、指導者に関する書き込みが削除されずに放置されることが増えたという事実を指摘している。
補論 日本の幕末との対比
前掲の拙著の趣向の1つであった日本史との対比によって、今回の事態を説明するならば、本稿の一連の分析において示した習近平の自然死または政治的な死(重病、解任、水面下でのクーデター等)の可能性は幕末の桜田門外の変に対比できるでしょう。後者は実際のテロルではありますが。いずれも国難が前提となっていて、変事に先行した日中両国のレジームの中で、例外的に強権的な政権が成立し、それが潰えて体制の終わりに至ります。
井伊大老は幕政の舵取りが困難になった難局に対して、果断に統制を強化し、前例のない形で思想・言論の取り締まりを行いますが、周知のように反動からテロルに斃れます。後継の老中たちは反発を恐れて弱腰となって幕政は漂流してゆき、やがて手を携えた薩長を主体とする西国雄藩の連合体によって打倒されるという結末です。
現代中国は改革開放政策の下で90年代以降に目覚ましい経済発展を遂げたあとで、胡錦濤政権の末期にはアメリカとの覇権対立が不可避となっていました。その後継の習近平政権にしても、当初は江沢民派(地縁の上海閥を軸に、石油精製・石油化学利権の分配という実利によってまとまっていた)と太子党(太子は王子の意で「紅二代」と同義、習近平以下の革命貴族としての共産党幹部の世襲の二代め)が団派(胡錦濤・李克強・胡春華以下の、共産党青年団出身の学校秀才のテクノクラート集団)を排除するための妥協として結託して成立したものでした。習は副首相まで務めた硬骨漢の父親の遺徳もあって信を得ますが、当初は人畜無害な人物と目されて周囲に安心感を与えていました。実際に政権が発足してみると、じきに強権化して反腐敗を旗印に政敵(政権獲得の目的を達したあとで利害が分かれた江沢民派に留まらず、団派にも及ぶ)の排除に血道を上げるようになるのですが、綻び始めた体制が延命策として強権化を採用したものと解釈できます。
その点では、譜代きっての大藩の藩主の子として生まれながら、側室の子の14男であったことから、本来藩主になれる見込みは絶望的であった部屋住み(次子以下で独立妻帯が認められずに長兄に養われている男子)の井伊直弼が、家中の政争に巻き込まれないように学問と茶の湯に打ち込んでみせていた前半生から、兄の死によって一転して世子(この場合、藩主である20歳以上年の離れた兄の養子としての世継ぎ)、次いで藩主と運命が転変してゆく中で、次第に自身の本性を現していったプロセスとよく似ています。
もっとも、安政の大獄の開始から井伊の非業の死までは、たかだか1年半あまりのことでした。今回の中国での変事は、習が国家主席として本来の2期10年を務めたうえで、異例の3期めに入ってからさらに1年半近くが経過してからのことでしたから、強権政治に及んだ期間という点では比較にもなりませんが(9/1日追記)。