ぽちのあしあと
尋常ではないほど可愛かった保育園時代
とにかく可愛い可愛いと言われながら育てられてきました。
一番上の兄とは10歳、姉とは6歳離れて産まれてきた僕は、末っ子も末っ子。
誰からも可愛い可愛いと言われながら暮らしていました。
兄からは、度を越しているほどの愛をうけ、毎日顔をべろべろ舐められていたほどでした。
しかし全く嫌ではなく、嬉しくてたまりませんでした。
戌年うまれなんで、そういうことに抵抗がないのかもしれません。
好奇心旺盛であり、どこへ食べに行っても、全部の席を周り、
「それ何食べよるが?おいしい?」
と聞いてまわる子だったらしく、姉からはとても恥ずかしがられていたそうです。
そんな僕の一番古い記憶は、魚が大好きだったこと。
高知県は皿鉢料理がとにかく出てきます。
いつでもどこでもやたらめったら皿鉢料理。
親戚が集まって皿鉢をつつく時、大体みんなタマゴのお寿司を攻めるのですが、僕は魚のお寿司しか攻めません。
魚のお寿司とは、お寿司屋さんのそれとは違い、姿寿司のような大きな魚の中に酢飯を詰めたもの。
一度魚のお寿司を食べたときに、ばあちゃんが
「子供やにそんな魚のお寿司らぁ食べる子はおらんわ。」
と嬉しそうに言っていたのを見てから、
「じゃぁ期待に応えちゃろう。」
と思い、魚やサワガニなど、子供が綺麗に食べるには難易度の高いものばかり食べていました。
それ以来魚料理が大好きになり、どうにかして大好きな魚を毎日山ほど食べる方法はないかと考えるようになりました。
そこで思いついたのが庭に魚を植えて、魚を育てること。
これは凄い作戦だと思い、ある日むしゃむしゃと食べ終わった魚の骨を裏庭に埋めに行きました。
(これしよったら毎日魚食べれるし、植えた骨から魚が生えるけん、ずうっと魚が食べ続けれる!)
そう思い、毎日ワクワクしながら魚の骨に水をあげ続けました。
理由はわかりませんが、その頃から、やたらと野良犬や野良猫が裏庭に集まってくるようになっていました。
当の本人はそんなこともつゆ知らず、ただひたすらに魚の目が生えてくるのを待っていました。
ある日魚を植えた場所から何やら草の芽が生えており、
(とうとう魚が生えてきた!)
と思い触っていたらスポッと草が抜けてしまいました。
抜けてしまったそれを持ってお母さんの所へ行き大泣きしました。
「残念やったね。」
と優しく声をかけられましたが涙は止まりませんでした。
あれほどの情熱があった、魚畑でしたが、いつの間にやめてしまったのかは全く記憶にありません。
親から本当の事を習ってしまったのかもしれないですね。
また、冬の雪が降るような寒い日に普通に息をしていると、白い煙のようなものが口から出たきたことに驚いたことがあります。
(こないだテレビで見たゴジラになってしまったかもしれない)
と思い不安になり、泣きながら母親に相談をしに行きました。
怪獣になったら保育園ももう行けなくなると思ったのですが、
「大丈夫で。」
と軽く諭されたあと、なぜ口から白い煙が出るかの説明を受けました。
当時の僕はとても大人しい性格であり、保育園に行ってもいじわるばかりされてしまうので何かにつけて休もうとしていましたが、毎日いやいや連れて行かれているような状態でした。
自分に対して圧倒的に自信がなく、保育園に行くのも怖かったですし、何をしてもおどおどしているので、いじめっ子の格好の的であったと思います。
得意だったドロ団子をどれだけピカピカに磨いて干していても、次の日には必ず割られているし、保育園の裏山にあるシイの実をお母さんにあげたくても全部取り上げられてしまうので、ポケットがたくさんついている服で登園していました。
拾ったシイの実を全てのポケットに分けて入れ、見つからなかった分だけどうにかお母さんにプレゼントできていました。
その姿を見てお母さんは泣いていましたが、嬉しくて泣いていたのか可哀そうに思って泣いていたのか当時の僕にはわかりませんでした。
このままではいけないと思ったお父さんは、休みのたびにいじめっこの家に僕を連れていき、ポイっとおろして先に帰るなどの荒療治をしてくれていましたが、全くの逆効果で、僕はただ怖いと思い泣くだけでした。
保育園の運動会では一度もゴールまでかけっこ出来たことがなく、カーブを曲がる前に正面にいるお母さんの所へ一直線に走って行き、大声で泣くというのが毎年の恒例行事でした。
年長になった時に、担任の先生と
「今年こそは絶対にゴールするけん」
と強く約束をしたのですが、やっぱり一直線にお母さんの所へ走って行ってしまい、結局一度もかけっこでゴールまで行けずに僕の保育園生活は幕を閉じました。
自信しかなかった小学校時代~前半戦~
一年生の時の担任の先生は退職間近のおばあちゃん先生でした。
とにかく怖く、竹の根っこで作ったムチを常に持っていました。
そして誰よりも褒めてくれたし認めてもくれました。
ある日かけっこをした時、一番にゴールできました。
保育園の時は一度もゴールまで行けなかったのにです。
さらには学年で一番足が速いことがわかりました。
たったそれだけの事で自信がつくんですね。
それからは勉強でも運動でも絶対に誰にも負けないと思うようになりましたし、実際に負けることはありませんでした。
何の話を聞いても一度で全て理解できますし、毎日ワクワクが止まらない感覚があり、学んだ事は全てお母さんに話していました。
中でも一番覚えているのは花の種を植えたことです。
本葉が出て、二葉が出て、というように成長していく様子を観察することが楽しくて、そして嬉しくてたまらず、毎日朝も帰りも様子を見に行っていました。
未だにそういうのを見ることが好きで、先月も妻のお母さんからチューリップの球根を貰い、プランターに植えました。
妻は植物を植えると虫が寄ってくるからダメだと言っていましたが説得しました。
毎日妻や子供と水やりをしており、最近大きな葉っぱが生えてきました。
毎朝仕事へ行く前にチューリップの様子を見ることが日課となり、小学生の頃にワクワクしていた事を思い出しますが、あの時ほどのドキドキはもう味わえなくなってしまっていますね。
春になるとたくさんの色の綺麗なチューリップが咲くと思います。
ちなみに、お芋掘りやへちまの収穫などにおいて、誰よりも一番大きなものを収穫できた!みたいな体験は一度もありません。
もちろんビンゴゲームで一番に揃った!ということもありません。
いつも、ほどほどのそこそこです。
運要素の絡む事などで物凄く得をしたようなことは本当に一度もなく、
(いつか爆発的に何かが当たるために今は貯めているんだ。)
などと前向きに考えるようにしています。
くじ運の良くなさ(決して悪いわけではなく、あくまでも良くはないというだけ)は小さい時からずっと続いています。
逆に僕の妻は良くクジに当たります。
(プラスとマイナスが引き合うように自然とそういう出会いになったのかもなぁ)
と思います。
1年生の最後の日に担任の先生から全員が絵本を貰えることになりました。
僕はもらうはずの本を持っていたこともあり後日他の本を貰える事となりました。
エルマーの冒険とピーターパンの2冊だったと思います。
普段からたくさん褒められていた事もあり、自分だけが特別扱いを受けたようでとても嬉しかった事を覚えています。
特にエルマーの冒険は大好きで、何度も何度も読みました。
子どもが大きくなったら買ってあげたいです。
2年生では新人の若い女性の先生が担任となりました。
とても優しい先生で、作文の書き方や文字の丁寧な書き方などをたくさんならいました。
やはり心が落ち着いている時は、文字も落ち着いていて、当たり前に丁寧に書いていました。
漢字の宿題でも、シンニョウだけ先に書いて・・みたいな謎なことは全くしていませんでした。
そんあある日、学校から帰ってくると、家のすぐ近くの道端にぐちゃぐちゃになったうちの車がありました。
でもなぜか、何も思わず、それほど動揺もせず、いつものように家の鍵をあけアンパンマンを見ていました。
コタツでうとうと寝入ってしまっていたのですが、体調も悪くないのにいきなり高熱が出て、熱くて目が覚めました。
今思えば、本能的に車が潰れてしまっていたことに何か感じていたのかもしれません。
普段うちには一切立ち寄らない祖父と祖母が家に入ってき、両親が乗っていた車が後ろからぶつかられ、二人ともが病院へ入院していることを聞きました。
あたまが真っ白になり、きっと病院へ会いに行ったのだと思いますがその日のことは全く記憶にありません。両親ともにかなり長い間の入院となりました。
しばらくの間、大学入試を控えた兄と高校入試を控えた姉の、3人で生活をしていました。
2人とも塾などで帰りが9時頃になるので、毎日自分でご飯を炊き、インスタントのワカメスープと卵焼きを作り一人で晩御飯をすませていました。
後日談なのですが、毎日卵焼きを焼いていて、自信があったのでおばあちゃんに焼いて食べさせてあげようとしたことがあります。
お椀に卵を落とし、かきまぜた後フライパンへ流し込んだ時、おばあちゃんから、
「おわんに残った卵をもっとしっかりかき出さんといかん!もったいない!」
と怒られてしまいイやになった記憶があります。
話は戻るのですが、1人で鍵っ子となり、毎晩の御飯も1人ですませる生活に慣れてきたものの、やはりまだ2年生。
ある日どうしても寂しくなり、お母さんに会いたくなってしまいました。
私の田舎は国道も1本しか無く、方向だけ間違わなければ大体の場所には向かえます。
家中の小銭をかき集めてバスに乗り、お母さんに会いに病院へ行くことを決意しました。
病院の名前はわかっていたのですが、情報はそれくらい。
しかし、そんなことより何よりお母さんに会いたいという事しか考えていなかったのでまずはバス停に向かいました。
田舎のバス停は2時間に1本来るかどうか。
でもバス停の時刻表を見てバスを待ちます。
ようやくバスに乗れましたが、まずは降りる場所がわかりません。
赤い大きな橋に見覚えがあったのでそこで降りることを決めました。
橋が見えてきたので降りるボタンを押したのですが、かなりやばい事が起こります。
赤い羽根共同募金の貯金箱から取り出してきた僕のお金は1円玉や5円玉ばかりで、全部足しても400円ほど。
前面に表示されている料金は680円でした。
そこで僕は考えます。
(このままでは間違いなく警察に逮捕されてしまって、牢屋に入れられてしまう。でも逮捕される前に走ってお母さんに会いに行こう。足が速くて良かった。)
と。
バスが赤い橋を渡り止まるやいなや、僕は持っている全部の小銭を、流れるベルトの上に投げ入れ、運転手さんが大量の小銭を数えているうちに全力でバスを飛び出して走りました。
僕の地元の中村市は、京都から来た一条家によっておさめられていたそうですが、京都を懐かしんだ彼らが、碁盤の目状の街並みを模倣し綺麗に区画整備したそうです。
おかげで全ての通りを行けば、いずれ病院がわかると思い、かなり長い時間病院を探しました。
余談ですが、この一条家の一条兼定という人物ですが、僕の好きな歴史シミュレーションゲームの信長の野望にも出てきます。
何百人という武将の様々な能力が100点満点で決められているのですが、一条兼定は、ほとんど全ての能力が1桁であり、全ての武将の中で最低ランクとなっています。
もちろん僕は一条兼定を使ってプレイします。
話を戻しますが、全ての道を走り、ようやく病院を発見しました。
どれくらい走ったかは覚えていませんが、思っていたよりもかなり時間がかかってしまった事だけは覚えています。
受付で自分の名前とお母さんの名前を言い、涙ながらに病室に入るとお母さんがとても驚いていました。
僕は、人に驚かれることがとても好きですし、気持ちが良いので、泣きながらも、自慢げで誇らしげにしていました。
しかし、ゆっくりしている暇はありません。
今警察に追われていて、すぐに逮捕されてしまうので、長い事は話せないことと、もう会えなくなってしまうことを巡回に来たお医者さんとお母さんに説明しました。
2人とも大笑いしていましたが、僕は一生懸命話すことを笑われることが大嫌いなので腹をたてました。
しかしそこで、
「バスのお金って、子供は大人の半分やけん捕まらんよ。それどころか何十円か多く払うちょるけん運転手さんは喜びよると思うで。」
という話を聞き、本当にホッとしました。
頑張ったご褒美やと、余分に払った分のバス代と、加えて100円をお医者さんからもらい、その日はそのままお母さんと病院の目の前にある、ぐーちょきぱーというお好み焼き屋に行く許可をもらいました。
僕は昔から、どんな楽しい時でも、その後の別れの事を考えてしまう癖があり、お好み焼き屋でもずうっと泣いていました。
この癖は大学生にほどになっても全く変わりませんでした。
大好きなお兄ちゃんが夏休みに大学から戻って来て、一緒にいられるようになっても、夜になったら一週間後にお兄ちゃんが大学へ帰ってしまう事ばかりを考えてしまいメソメソ泣いていました。
最近になってようやく少しコントロールが効くようになってきました。
さて、お母さんに会え、とても嬉しかったし、たくさんの人から凄い凄いと言われ味をしめた僕は、それ以降もバスに乗り何度も病院へ行くようになりました。
担任の先生にも声をかけてもらいながら、どうにか両親のいない生活を乗り切り、また一緒に暮らすことができるようになりました。
その時あたりから、
(自分は周りの同級生より苦労しているんだ!他の子とは違う。)
みたいな感情がわき始め、同級生だけではなく先輩や後輩など、周りの子たちを見下すようになっていきました。
ちなみに今ではまるで趣味であるかのようにダイエット(リバウンド)を繰り返しているのですが、この2年生の頃から太り始めていきました。
3年生ではベテランの女性の先生が担任となり、相変わらず勉強面でも運動面でも絶好調、更には絵も作文も感想文も全てが代表となり、毎回入賞の常連となっていました。
しかし周りの子たちを下に見る感覚は明らかに増してきており、着々と嫌われ者になる準備が整ってきていました。
4年生になってから、初めて男の先生が担任となります。
これまでの先生と違い、細かい事は全く気にしない先生でした。
僕たちは毎日本当に楽しんで学校生活を送っていましたが、明らかにクラスも、もちろん僕も落ち着きをなくしていっていました。
3年生から近所のソフトボールチームに入りピッチャーをしていました。
高知には闘犬センターという強いチームがあり、そこで投げていた左投げの投手からウインドミルを習いました。
今思えば、左投げのフォームを見て、脳内で右投げに変換していたので、スポーツにおいて、ものの見方が上手になったのだと思います。
練習でも試合でもほとんど打たれた記憶はありません。そもそもヒットになっても、
(あれはポジション取りが悪い。今のはキャッチャーの要求が悪い。)
と何でも他人のせいにしながらマウンドに立っていたので、そういう意味では僕は1本もまとまなヒットを打たれたことがない、無敵のピッチャーでした。
ある日学校へ行く途中、ドブに蜘蛛の巣を見かけました。
本当に理由もなく、近くの砂利を投げて蜘蛛の巣を壊します。
蜘蛛の巣は壊れて、蜘蛛もドブへ落ちていきました。
そのまま学校へ行くのですが、明確に自分の意志で生き物を殺してしまったことが怖くなり、学校が終わり次第走ってドブまで戻りますが、もちろん蜘蛛はいません。
その日は泣きながら家に帰りました。
その日以来、物凄く死ぬということを考えるようになってしまい、毎日お母さんに相談をしました。
一生懸命野球をしても、将棋を覚えても、友達が出来ても、死んでしまったら何もなくなってしまうと考えました。
ある日お母さんが、手塚治虫のブッダという漫画を買ってきてくれました。
それを読んで、お釈迦様でさえ死ぬんだということを知り、教科書に出てくる人なども、死んでいない人は誰ひとりとしていないことに気が付き、少しだけ気が楽になりました。
別に仏教徒でもなんでもないのですが、気持ちを楽にしてもらいました。
学校生活においては、明らかに変化が出始めます。
毎週金曜日に各学年で会が開かれ、一週間の嬉しかったことや嫌だったことを週明けの月曜日に全校集会の(学級から)というコーナーで発表するのですが、大げさではなく、毎週、全てのクラスから
(’吉村君たちは〇〇をするのでやめてほしい。)
という内容の苦情があがるようになっていました。
最初は、転がってきたボールを強く蹴って返したら飛びすぎてしまったり、プールの時間にどうせ濡れているからと、好きな女の子に水をかけたりしていただけなのですが、それらが言われてしまい、元々他人を見下していた性格も相まって、悪意をもって嫌がらせをするようになっていきました。
本当は嫌われたくないのですが、まるでジャイアンのように、好きな人に近寄っては嫌われていきました。
本当の本当はつらかったです。
ひねくれ始めた小学校時代~後半戦~
5年生・6年生の時の担任は持ち上がりだったのですが、その先生をあまり好きではなく、嫌だった思い出しかありません。
でも今思えば、先生が悪かったのではなく自分が本当に歪み、ひねくれてしまっていました。
あれほど得意だった勉強も、授業中の聞き方が悪くなってしまったせいで理解できていませんでした。
しかし僕はその事実から逃げ、全てを担任のせいにしていました。
学校の窓を開けておいたり、窓をがたがた揺さぶってカギを開け、先生たちが帰ったあとにみんなで忍び込むという遊び(犯罪ですね)が流行ったことがあります。
僕はアヒル係だったので、毎日キャベツなどを包丁で切ってアヒルにあげ、小屋も綺麗に流す仕事をしていました。
掃除が終わる頃には先生たちも帰っており、大声で呼ぶと裏山からごそごそと上下3学年くらいの子たちが集まり学校へ忍び込みます。
意味もなくみんながその遊びを続けていました。
職員室へ忍び込んで冷蔵庫をあけて、梅干しを勝手に食べたり、自転車を持ち込んで廊下を自転車で走ったりしていました。
ですが、悪い事は当然見つかります。
というか今思えば、仲間内の誰かが我慢できなくなって親に言ったんでしょうね。
ある日、仲間が1人ずつ放送で呼ばれて行き、僕もとうとう呼ばれます。
先生「この筆が何かわかるか?」
ぼく「わかりません」
先生「これは指紋を調べる筆や。もうわかっちょるろ?」
このやり取りで観念をしました。
しかし、素直にごめんなさいと言うことが出来ず、
「土曜日に上履きを持って帰るがを忘れちょったので、学校に侵入したことがあります。」
と誤魔化したのですが、結局は罪が一つ増えただけで、毎日侵入していたことは当然ばれていました。
あまりの人数の多さのせいなのか、そこまで悪質ではないと判断されたのか、もしくは主犯ではないと判断されたのかはわかりませんが、
「先生からは親には連絡せんけん、必ず自分で親に伝えなさい。」
と言われ、僕はラッキーと思い、うっすらしたことしかお母さんには伝えませんでした。
誤魔化したり嘘をついたりして自分や人を騙すことに一生懸命で、当時の僕は、今の僕が一番嫌いなタイプの子どもでした。
それからも細かいあれこれはたくさんありましたが、それにしても、複数人が同じようにしているのに、何故か僕ばかりが代表として名前があげられることに対しては流石に悩みました。
お母さんに一度相談したことがあるのですが、
「あんたは目立つがや。それが嫌なら目立つな。」
と言われました。
(なるほど、本当にその通りやな。)
と思いましたが、僕は他人よりも目立ちたかったので、結局何も変わらず生活していきました。
その頃には、褒められる事はほとんどなく、先生と話す時は叱られることばかりとなってしまっていました。
立て直すことのできなかった中学時代
中学生時代は本当の暗黒期の始まりです。
結論から言うと、頑張らないということを必死に頑張っていたので、当然何か結果が出たわけでもないですし、記憶にもほとんどないです。
覚えているのは常にひとのせいにして、誰かの悪口を言っていたことばかりです。
思春期の感情を間違って使ってしまったなと思います。
みんながオシャレに気を使ったり、野球部しか部活動がない学校において、休み時間にバスケをする人が出てきたりと、明らかに変化していったのに、僕は子供路線まっすぐで、一生懸命に大人に歯向かっていました。
本気ではない雰囲気や、人を馬鹿にしたりすることに一生懸命で、何に対しても適当を決め込んでいました。
当然勉強も驚くほどのスピードでおいていかれるのですが、
「全然困ってないし。本気出したらいつでも勝てるし。」
と思うようにしていました。
小学生以来、一度も負けることがなかった100m走においても、とうとう負けてしまいましたが、ほんの少しだけ痛かった膝のせいにして、成長痛だと足を引きずるふりをし、勝てそうにない勝負からは逃げるようにさえなってしまいました。
みんなが塾に通い始めても僕だけは入らず、常に余裕ぶっていました。
急に身体が大きくなり始めた同級生もおり、打球の飛距離で負けたり、スピードで負けたり、体力で負けたりと、結局何一つ勝てるものはなくなってしまっていました。
そもそも競う仲間さえいなくなり明らかに僕は一人になってしまっていました。
唯一の友達だった子が不登校になり、学校にこなくなったことをきっかけに、僕はその子を助けるふりをしながら、その子にしがみつくようになっていました。
毎日朝夕彼の家を訪ね、
「頑張って学校に行こうや。家におったち寂しいろ?」
と伝えていたものの、それは彼のためではなく、一人ぼっちの僕のためでした。
そのまま彼が学校に来れることはなく、僕は完全に学校では一人でした。
物凄くマイナスな事ばかり書いてしまいました。
しかし、今思い出しても、本当に何をしてたんだ!と過去の格好悪い自分に腹がたちます。
しかし、今教員をやるようになって、
・強がっている子
・いきがっている子
・素直になれない子
・学校に来れない子
の気持ちが本当によくわかります。
他の先生たちには全くわからないようです。
いつも思うのですが、学校の先生って、保育園から大学まで、” 学校 ” とよばれる建物の中で過ごし、更には先生になってもまだ学校の中にいます。
社会についてとか、社会人になったらとか、社会では通用せんぞとかよく言うのですが、ほとんどの先生がその ” 社会 ” について全く知りません。
行動については馬鹿だったなーと思いますが、同時に
(しっかりと自分の糧に出来ているな。よしよし。)
とも思っています。
高校入試の時期になり、お母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも通っていたちょっとした進学校も考えたのですが、真剣に勝負をして負けることが怖かったのと、努力も全くしていなかったので、確実に入れる高校に行きたかったという設定を作り、そこに入りました。
勝負から逃げることに必死の高校時代
ここまでひねくれて逃げまくってきた自分をそう簡単に変えられるはずもなく、高校に入ってからもうまく友達作りは出来ませんでした。
たくさんの人が声をかけてきてくれましたが、引っ込み思案でビビりの僕は上手くかかわる努力をせずに基本的一人でいるようになりました。
唯一話せる友達はいたのですが、その子は人気者だったので色んな人と遊んでおり、僕は一人で寂しい奴ということがばれないようにと毎休み時間、読みたくもない本を読みに図書室へ行っていました。
高校野球もやってみたかったのですが、背が低いので活躍は難しいだろうと考え、挑みさえせず、ソフトボール部に入りました。
高知県はソフトボールが盛んな県ですし、ソフトボールは大好きなので逃げではないとも言えますが、でも本当は高校野球をしたかったのでやはり逃げだと思います。
ソフトボール部の先輩と話していた時、僕のお母さんが小学生の時に担任をしていたという人がいました。
先輩たちは、ほぼみんな優しく、大事にされました。
先輩たちは僕のことを ぽち さんと呼んでいました。
「よしむらの よし と ぽち の発音が一緒やけん、ぽちむらさんな。」
とのことでした。
それがすごく気に入り、それ以降、誰かに呼ばれるわけではないですが、僕は自分でぽちを名のる(あだ名は?と聞かれた時に)ようになりました。
そんな先輩たちと、適度にさぼりながら、ソフトボールを楽しみます。
中途半端な努力ながらも、久しぶりに少しだけ頑張るものが出来ていたので楽しいなと思うこともありました。
しかし、やはり性格が邪魔をしてしまいます。
こちらが納得できず怒られることがほとんど毎日あり、キャプテンなんかは、毎日バットやグローブで歯が折れるほど殴られていました。
それを見ていることも怖かったですし、僕がショートを守っていた時の中継の場所で監督と口論になり、一年生の秋に部活動をやめることにしました。
9人しかいない部活動だったので、僕のせいで大会も出られなくなってしまいました。
しかしそんな仲間のことを考える余裕すら当時の僕にはありませんでした。
近々、国体が高知県で行われることもあり、レスリングの専門の先生が指導者として来ていました。
競技人口が比較的少ないから、全国大会にもほぼ確実に行けると誘われ、レスリング部に体験で入りました。
何日かは先生とマンツーマンでトレーニングをしていたのですが、本気で戦うことが怖い僕にとって個人戦の競技は敷居が高く、そこからも数日で逃げました。
突然ですが、僕は物凄く漫画が好きです。アニメではなく漫画です。
何か面白い作品があると、その作者の書いた漫画がすべて読みたくなり、一度に50冊ほど買ってしまいます。
ドラゴンボールやジョジョからはじまり、年の離れた兄や姉の影響からゴルゴ13や少女漫画まで3000冊ほどの漫画を集めるほどになってしまいました。
そんな僕が高校3年生になる頃に、はじめの一歩やあしたのジョーといったボクシング漫画を読むようになり、個人戦は怖いと思っていたのに、どうしてもボクシングをしてみたくなりました。
レスリングの先生から
「知り合いのプロボクサーを今度呼んだけん、習ってみんか?」
と言ってもらいましたが、自分は太っていて、たるんだ身体を見られるのが恥ずかしいと思い断りました。
今考えれば、相手は素人の僕に対して何も思わないだろうに、勝手にネガティブな予測をして、大きなチャンスを逃してしまっていました。
大きなチャンスと言えばこの話は外せません。
中学校一年生のころからずっと片思いをしていた女の子がいました。
後悔したネガティブな話ばかりになるのですが、大事な過去なので避けては通れません。
結論を言うと11歳から20歳までずうっとその子だけを好きだったのです。
田舎だけではないと思うのですが夏休みの朝早くからラジオ体操があります。(ちびまる子ちゃんでもしていたので、静岡でやっているはず。さくらももこさんも亡くなり、声優のTARAKOさんも亡くなってしまいましたね。ご冥福をお祈りします。)
相手は2個下の子です。
ある日朝5時からタッチを見ていると(高知県はNHK・教育を除くと2チャンネルしかなく、テレ朝やテレ東、フジテレビなどは、驚くような時間に挟み込んで番組が流れていました。ちなみに笑っていいともは夕方の5時からやるのですが、おひるやーすみは♪という歌詞の意味が全くわかりませんでした。月9やドラマに至っては夜中の二時などに流れていました。)外から大きな声が聞こえてきました。
窓から外を覗くと、女の子が走ってラジオ体操に向かっていました。
その天真爛漫な姿がとても可愛く一目惚れしてしまいます。
小学生時代に続き、中学生でも目立ちたくて児童会長をしていたので、職権乱用をし、行事ごとの写真買いませんか?で壁に貼られてあった物を集めてこっそり持って帰ったりしていました。
高校2年生の時、もう、好きが止まらず、いてもたってもいられなくなったので、ある日その子に勇気をもって
「友達になってください。」
と手紙を出すことにしました。
付き合ってくださいと書かなかったのは、身体も太っていたし、何より自分に自信がなかったので、友達にならなってくれるかもと思ったからです。
同級生の女の子伝いに渡してもらいました。
1週間ほどして友達から返事を受け取ってきてもらいます。
ドキドキしながら開いたその手紙には
「良いですよ。付き合いましょう。」
と書かれていました。
普通なら飛び跳ねて喜ぶところなのでしょうが、僕は違いました。
友達になりたいと書いたはずで、付き合ってほしいとは書いていません。
急な展開にテンパりすぎて、謎に格好をつけてしまい、
「ごめんなさい。付き合えません。」
という返事を返してしまいます。
相手の子もこの上なく驚いたことでしょう。
何が何やらわからなかったと思いますし、僕自身も今考えてもさっぱり理由がわかりません。
今考えると、上手くいっていない事で安心をしたり、付き合いだしたとしても自分に自信がないのでフラれることばかりを考えていたのだと思います。
何かと、誰かと、勝負をすることをとにかくさけ続ける時代でした。
暗いことばかり書きましたが、ただ、一つだけ胸をはって頑張ったと言えることがあります。
それは数学の勉強です。
入学前、教科書を買ったタイミングで何気なく数学の教科書をペラペラめくりました。
そのお陰か、一発目の授業でやった数学が物凄く頭に入ってきたのです。
聞くこと全てが頭に入る、小学生の時以来の感覚でした。
それがとても嬉しくて、毎日予習復習をするようになりました。2年生からは理数コースに入り、結果としてそこからの2年間は数学のテストにおいてほぼ満点で、常に学校でトップでした。
僕は26歳から高校教員をするのですが、高校時代に出会った数学の先生のことが大好きで、その先生みたいになりたいと未だに思っています。
その先生は、
「日本の数学は僕でもっちょるがよ。数学以外の勉強はせんでもかまんけんね。」
と本当に毎日言っていました。
そんなことを堂々と言いながら、国語や社会や英語など、色々な授業を他の先生から勝手に横取りしては一日数学を6時間やることもありました。
授業をとられた先生たちは、いつも、教室に来るなり
「あの先生おかしいろ?お前らも大変やにゃぁ。」
と言っていました。
その先生は明らかに学校中の教員から嫌われているのだなと我々はわかっていました。
でも僕は、
「そんなに嫌なんだったら、なぜ授業時間をあげるんだろう。断ればいいのに。」
と思っていましたし、クラスの他の子たちもこの話をするとみんな頷いていました。
しかしとにかく、その先生のエネルギーは尽きることなく、ただひたすらに数学のみを必死に教えてくれていました。
自分勝手だと思われていた先生でしたが、その先生が最後、僕たちが卒業する直前の授業で、
「先生は毎日数学以外はする必要がないって言うてきたけど、それは本当は嘘。君らぁはたくさんの事を学ぶべき。でも、先生は数学の先生やけん、数学をたくさん勉強して欲しいと思いよった。もし先生が英語の先生やったら英語を一番やりなさいと言いよったと思う。つまりは学校の先生ってのはそれくらい自分の教科を大好きで、必死にみんなに教えるべきながよ。」
ということを話してくれました。
やはり我々の見る目は間違ってないし、改めてこの先生はプロフェッショナルだなと思いました。
先生のギラギラした目は未だに忘れられず、僕も自分の仕事に誇りをもって働きたいと強く思っていました。
さて、今度は大学受験の時期となりました。
しかし数学以外は全く頑張っていなかった僕は、大学受験の時期になっても、何も決めきれずにいました。
他の教科も頑張ってはいなかったものの、要領だけはよかったのである程度の成績がとれており、担任の先生から
「指定校推薦で良い学校が残っちょるけど、どうする?」
と聞かれました。
調べてみると名のある学校でした。
しかし何か目標があるわけでもないし、特に入りたいわけでもない。
しかし、早くどこかに決めないといけない。
誰かに強要されたわけでもないのにそう考え、その大学を受けることにしました。
面接と小論文だけちゃちゃっと練習して、すんなりと合格し春から通うこととなりました。
出鼻をくじかれまたまた逃げる大学時代
東京にある國學院大學へ入り、通うこととなりました。
住むのは寮。
入寮試験があり、男女がビーチで楽しく遊んでいる動画などを見せてもらい、楽しいことしかないと聞いていたところです。
(これまでと違った新しい生活がきっと待ちよる。高校に入る時に数学を好きになれたみたいに、先輩や同級生と仲良くなってこれまでと違う大学生活を楽しもう!)
そう思って入寮日を迎えます。
寮へ向かう道には、スーツをビシッと着こなした先輩たちが花道を作ってくれていて、祝福されながらその間を歩き寮に入ります。
そのまま全員が食堂前に並べられ、一人ずつ食堂の中に入ってくるよう指示をされました。
僕は(ヨシムラ)なので出席番号がかなり後ろです。
前後の同級生と
「これ何やろうね。ってかどこ出身?」
などと話しながら順番を待ちます。
最初はわかりませんでしたが、自分の順番と食堂が近付くにつれ、中に入った人が出てきていない事と、中から何やら叫び声が聞こえていることに気が付きました。
しかしもう手遅れです。
逃げ出すわけにもいかず、選択肢は食堂の中に入るの一択でした。
中に入るとそれまでに入った同級生たちは泣きながら床に座っており、全ての先輩たちがこちらに罵声を浴びせながら自己紹介をせまってきていました。
僕は声の大きさには自信があったので、腹をくくり全力で自己紹介をしますが、相手方の何十人もの声にかなうはずもなく、全てかき消されてしまいました。
あとで聞くと、その声で鼓膜が破れた人もいたようです。
さらに、初日から1週間くらいは夜に脱走する1年生がいるので、逃げ出さないように、全ての入り口に2年生の見張りを置くなど、厳戒態勢をとっていました。
2階の窓から自転車ごと飛び降り、逃げた同級生もいました。
部屋周りと称し、決められた日までに全部の先輩からサインをもらうこと(三周ずつ)や、薄暗い朝4時くらいから、広い陸上競技場の対角線を使い、端から端まで聞こえるように校歌を歌う(裸で)など様々な試練(イベント?)がありました。
色々なことから逃げ続け、逃げることが当たり前な僕は、出鼻をくじかれることに異常に弱く、前向きな思考をしなくなってしまいます。
入寮した1日目には、既に心の中でお母さんに泣きつき、寮を出る算段をたてていました。
そう考えると
(ゴールまで走れなかった保育園時代と何にも変わっていないんだなぁ)
ということに気が付きますね。
強くなりたいです。
しかし良いこともあり、それらのシゴキのお陰?で、一年生同士はグッと仲良くなれていました。
どの先輩がどんな趣味で、どの先輩は許してくれて、どの先輩は声の大きい人が好きで、みたいな情報を全員が徹底して共有し、なめたような高校3年生の自分を出す人は一人もいなくなっていました。
ただ、結論、僕はやはり逃げます。
しかし、せめて部屋周りと、校歌のテストだけは受かってからやめようと決め、入学式当日の早朝、校歌試験に合格してから退寮をしました。
兄が大学時代の先輩や後輩と遊んだり、大学時代の野球のチームメイトと草野球チームを作ったりしていることを知っていたので、僕もそういう仲間ができるんじゃないかと楽しみにしていました。
寮を出る時に、同部屋だった先輩にその話をしました。
先輩から、
「変な風習のせいでごめんな。」
と言われた時、
(こんなことをやりたい人ばかりじゃなかったんだな。)
ということに気が付きました。
ワーワー言われている時はそんなことを考える暇すらなく、ただひたすらに追い込まれていました。
そこからしばらくは親戚のおばちゃんの家で生活しながらアパートを探し、一か月ほどでアパートへ引っ越しました。
それから寮生は何度か学校で見かけましたが、その後も行われていた様々なイベントのおかげで、生活リズムが全く違い、ほとんど顔を合わすこともなくなっていました。
親のすねをかじるだけかじり、生活が安定してきたので、
(何か部活動やサークルにでも入ろうかな。)
と考えるようになりました。
兄から
「サークルならともかく大学の部活動はお前が考えよるようなもんやないけん、やめたほうがええで。」
と言われ、寮のこともあり大学は怖い場所だと思ってしまっていた僕は完全にしり込みし、どこにも所属せず、ただダラダラと大学生活を送るようになってしまいました。
デパ地下でのアルバイトもしてみましたが、何かで叱られたことで嫌になり、本当に子どもだった僕は、無責任にも無断欠勤を繰り返しクビになります。
大学でも結局友達を作れなかったので、長期休みは全て地元に帰り地元の後輩と遊んでいました。
地元に帰るために、アルバイトも融通のききやすい、家庭教師や単発の派遣バイトをします。
引っ越しのアルバイトをした時もそこの先輩と揉めてしまって
(もう二度と引っ越しの仕事はしたくないな)
と考えていました。
全てを相手のせいにして生活してきましたが、それにしても、何をしても初っ端にトラブルが起こります。
生意気な態度をとっていて、目をつけられているんでしょうね。
「全部相手のせいにしてないか?何かあった時はまず自分に矢印を向けて考えてみ?」
と教えてもらったのは30歳になってからでした。
千葉にある、兄が作った草野球チームだけが唯一の遊び場であり、毎週末にはそこに行き、試合に出て、週明けにはアパートへ帰るという生活を4年間続けました。
その時間はとても楽しかったですし、大好きなお兄ちゃんと週に一度は一緒にいられることが嬉しくてたまらなかったので、満足していたつもりでしたが、やはりどこかで満たされていないと感じていました。
ほぼ引きこもりのようになっていたものの、最低限の出席と相変わらずの要領の良さで単位を落とすこともなく、進級していきます。
興味もないけど取れる資格はとっておこうと、公民と商業の高校教員免許も取得するだけしておいて卒業をむかえました。
大学時代は本当に家にこもっていたので、時間がたつのが驚くほど遅く、しかし中身がないので終わってみれば、本当に実の無い薄いものとなってしまいました。
しかし、当時好きだった、ブランキージェットシティのライブに行くことができました。
地元ではライブなんて一切ありませんし、近くて車で三時間の高知市まで行かないといけません。
生でライブを見れた時は、涙が出るほど感動しましたが、そのライブは解散ライブだったのでそれが最初で最後のライブでした。
ブランキージェットシティも、ミッシェルガンエレファントも、黒夢も、ジュディマリも、僕が好きになったバンドはすぐに解散してしまいます。
(バンドを好きになったらいかんがやないろうか。)
と考えたこともありました。
夢だったボクシングジムにも入りました。
ファイティング原田さんのジムです。
初日の練習から、コーチの猿飛小山さんに
「型がいいな。空手していたのか?」
などと聞かれて優越感にひたっていましたが、良かったのは型だけであって、実際にスパーリングなどが始まると殴られることが怖くなり、練習から足が遠のき、3か月ほどでやめてしまいました。
好きだな、やりたいな、と思うことは山ほどあるのですが、相変わらず何をやっても、怖いとか嫌だとか感じてしまい、続けず、逃げるという選択をしてしまっていました。
携帯販売をしていた電気屋さん時代
私の入っていた経済学部には卒論というものがなく、日にちが来たら卒業できるというものだったので、特に区切りも感じず、就職活動をすることもなく、なんとなく大学を卒業し、地元に帰ることとしました。
地元に帰ってからもしばらくは何となく親のすねをかじりながら生活していました。
そんなある日、近所の電気屋さんに行き、携帯電話担当のお姉さんと携帯電話について話していたところ、
「産休で近々休むけど代わりの人が見つかっていなくて困ってるんだ。」
という話を聞き、急遽その日に面接を受け、僕が後釜として店舗に入ることとなりました。
派遣とはいえ、僕が初めてする仕事でした。
とても嬉しかったです。
もともと携帯電話は大好きで、常に2ちゃんねるで情報を収集していたので割と詳しかったですし、お客さんにどんな質問をされても大抵のことは答えることができたので、あとは契約書の書き方を覚えるだけでした。
また、本当はダメなのですが、家電も好きだったので、白物家電から消耗品まで色々な物について丁寧に説明をしたあとで、
「実は僕、携帯販売員なんです。良かったら見て行ってくれませんか?」
などと接客をし、携帯電話を売っていました。
自分に関係のない商品について丁寧な接客をしたことによって相手も断りにくくなります。
また、デザインで悩んでいる人には、
「デザインはいずれどうしても飽きてしまいますけど、性能に飽きはこないですよ?高性能な機種を買ったほうが良いです。」
と高性能な物を売り、
性能で悩んでいる人には、
「画素数なんてよく言いますけど、このくらいの画面で見るなら100万画素もあればほとんど同じですし、最近の携帯は以前に比べたらどれも性能が良いです。なので好きなデザインの物を使った方が毎日幸せになりますよ?」
なんて言いながら、毎日バンバン売り上げていきました。
段々と固定客もついてきて、楽しみながら携帯電話販売員をしていました。
その頃は、大学時代までの反動から、とにかく忙しい生活を送りたかったので、10時から19時までは電気屋、21時までは塾講師、23時までは家庭教師という、掛け持ち生活を送っていました。
部活動を中途半端にやめたり、大学時代に何にも挑まなかったことを取り返すべく、1時間休憩の間に近くのキックボクシングジムに通いトレーニングをし、家庭教師のない夜は、市のトレーニング施設で筋トレをした後、毎日1キロは必ず泳ぐという生活をしていました。
思えば、小学生の頃以来の充実感を感じていました。
大学時代は引きこもってしまい、寂しさのあまり1人で麻雀牌を4人分並べ毎日自分と戦っていましたが(この行動こそ寂しいですが)、こんなに時間に追われるのは久しぶりでした。
キックボクシングのジムには一年ほど通いました。
ボクシング時代と同じで、サンドバッグやミット打ちなど、こちらだけが手を出すぶんには格好良く出来ます。
しかし、これもまたボクシング時代と同じで、実際にスパーリングが始まると、相手が本気で蹴りにくることがどうしても怖く、縮こまってしまい、
(練習に行くのが嫌だな。)
と思いながら練習に通うようになってしまいました。
かなり小さい規模の大会にも出場しましたが、相手を殴るということは相手が本気で殴りかかってくるということで、それがとても怖く、手を出せず引き分けの試合が続きました。
しばらくして、通っていたジムの館長が若くして病気で亡くなってしまったことがきっかけで、そこも離れることとなりました。
毎日お酒を飲んでいる、いかにもという感じの本当に男らしく見える格好良い館長でした。
24歳頃からは地元で野球をしていた人達を集め、草野球チームをつくりました。
中学時代、どこよりも弱く、練習試合も含め、一勝しかしていない時のチームカラーであった緑を基調としたユニフォームもデザインし(アスレチックスのもろパクリですが)、メンバーと、週に二日ほどの練習もしていました。
できる限り勝ちにこだわろうという目標のもと取り組んでいたので、市の大会では三回戦くらいまでは勝ち進めるほどの成績を収めていました。
しかしある日、チームメイトから話があると呼ばれます。
「僕らがしたかったのはこんな事じゃない。時々飲み会をしたりしながら楽しくしたい。試合中に大きな声で怒られたりするのも楽しくないし恥ずかしい。」
ということでした。
これまで同様、また、周りの人の気持ちを考えず、自分が・自分だけがしたいようにしてしまった結果でした。
小学生の時に ” 学級から ” という名目で言われていたようなことを24歳になっても、まだやっていたんですね。
物凄く恥ずかしくなり、
「ごめん。」
と謝ることしかできませんでした。
何人かの主力が、ごっそりとチームを抜けることとなり、チームも運営できなくなってしまったので、そのまま解散しました。
明らかに僕のワンマンなやり方が原因であり、当時の僕は、試合中に大声で味方を罵倒することに対しても何も思っておらず、何ならそれが目立って格好いいこととさえ思っていました。
後輩にはっきりと言われようやく気が付いたのですがその時にはもう遅く、また僕のもとから人がいなくなってしまいました。
それでもなお心からの反省は出来ておらず、周りには
「飲み会をせんかったけん抜けるって。僕はお酒が飲めんけん仕方がないもんね。」
みたいな言い訳を一生懸命にしていました。
家庭教師においても、僕は基礎的な学習を、教科書を使って指導したかったのですが、本部が先に100万円もするような教材を売りつけてしまっていました。
(本部って僕に生徒を紹介するだけやのに、どこで収益があるがやろう?)
と思っていましたが、高い教材を売りつけることが本当の目的だということに気が付きました。
僕は純粋に生徒に教えたかったのですが、その教材を売っている一味だということが本当に苦しくて、生徒の保護者に話します。
教材を返品させ、教科書や基礎的な問題集で授業をすすめていました。
しかし、その行為を本部から指摘され、クビとなってしまいます。
他の家庭教師派遣会社にも登録しましたが、どの会社もやり方は同じでした。
どうしても、意味のない高い教材を売りつけることに納得がいかず、自ら家庭教師登録を外し、個人で生徒を募って活動していくこととしました。
塾では、生徒を集めることがどれだけ大変なことか。
拘束時間と収入が見合っていないこと。
などを知りました。
塾長は人格者であり、生徒にも愛情をもって接している方でしたが、収入の面で2年ほどでやめることとしました。
携帯電話販売は順調で、毎月高いアベレージで台数をさばいていけるようになっていきました。
そんなある日、街で有名な、チンピラが来店します。
その人に笑顔で、
「いらっしゃいませ」
と伝えたのですが、
「お前、俺のこと見て笑いよったろ。」
と怒り出し、店の外へ引きずり出されたことがありました。
どうやら、僕と一緒に働いていた女の子を、以前ナンパしたけど相手にしてもらえず、それを僕が知っていて馬鹿にされたと思ったようです。
その時の店長は、絵にかいたような情けない雰囲気を出す人で、僕らのトラブルを見るなり、
「吉村くぅん。はよ土下座してぇ。」
と本気で言っていました。
本当に笑えてくるくらい腹が立ったので、いったんチンピラを待たせておいて、店長に詰め寄って話をしました。
店長は半笑いで、
「ごめんごめん、ほら、あぁでも言わんとお客さん許してくれんと思うたき。でも僕の発言のお陰で、ほっこりしたろ?」
なんて、間抜けなことを言っていたので、まともに関わることはやめようと思いました。
チンピラの方にも丁寧に説明をし、帰ってもらうようにしました。
25歳のとき、個人での携帯電話の販売台数が、四国で一番になったという連絡をもらい、高松にあるドコモ四国支社にて表彰をうけることとなりました。
自分がコツコツやってきたことが実ったのは本当に久しぶりだったので、とても嬉しく、意気揚々と表彰をうけました。
しかし今思えば、台数は他の人より少しばかり多く売っていましたし、お客さんに対しても丁寧に接していましたが、同じ従業員に対して横柄な態度をとり、要領の悪い同僚を罵倒するような態度をとったりしていました。
僕は未だにそうなのですが、能力に関してではなく、接客に行かないとか、一生懸命に売らないとかいう、努力をしない人がどうしても嫌いで、きつく当たったり、ハッキリとものを言ってしまう癖があります。
自分もそこまで完璧にしているわけではないのに、他人にばかり偉そうに言う、草野球で反感を買った時と同じことをまだ繰り返していました。
話は戻りますが、高松本社へ行くと、本部の方からドコモ四国で働かないかというお誘いを受けることとなります。
しかし正直、この仕事を一生続けたいという気は全く無かったため、お断りさせていただくこととしました。
恐らく、そこまで本気ではない言い方でしたが、
「上昇志向の無い人はうちにはいらないからね。」
という旨の話をされ、それならばと、数日後にやめることを決意し報告しました。
ある日ふと気が付いたのですが、甲子園に出ている高校球児が全員僕の年下になっていました。
プロ野球選手も僕より年下がたくさんいました。
自分のことのように見ていた、金八先生のドラマに出てくる生徒たちも当然全員年下でした。
もう戻れないことを認識するとともに、学校の先生をしている金八先生をとても羨ましいと思うようになっていました。
そして学校の先生をしてみたくなりました。
実は以前お母さんに、
「学校の先生やってみたいがやけど、どう思う?」
と聞いたことがありましたが、
「あんたはこう(感情が真っすぐ)やけんしんどいで。やめちょき。」
と言われたことがありました。
何をしたいか決めきれないまま働いていたのですが、改めて考えると、電気屋をしながら塾や家庭教師をしていたことも、本当は教育者になりたかったのかなと思いました。
数年の時を経て、お母さんに相談します。
母からの返事は
「私そんなこと言うたっけ?やりたいがやったらやったら?」
でした。
「おいっ!」
と思いながらも少しホッとし、高知県で臨時教員として働くことを決め、すぐに書類を提出しました。
金八先生に憧れ教員へ~高知県~
26歳になる年、臨時教員としての生活を始めました。
新しく何かを始めるということはとても新鮮で、そわそわする気持ちさえも楽しく、毎日が充実していました。
僕自身が勉強を得意としていなかったため、授業準備は大変でしたが、それでも楽しい日々を送っていました。
部活動は硬式野球部を見ることとなりました。
僕の好きな野村克也さんが、漢の夢とまで言った、高校野球の監督です。
どうやら前年度、先生と生徒が坊主にするかどうかでもめたらしくて、部員が二人しかいない中でのスタートでした。
もともと全校生徒が60人しかいない、かなり小さな高校だったのですが、その中にも部活動が8つもあったので、野球のように人数が必要なスポーツは継続自体が難しいものでした。
どうにかやめた部員も戻ることとなり部活動を再開したものの、教員として指導したい自分と、生徒との距離を縮めたい自分がおり、生徒から
「普段は友達みたいな顔して近寄ってくるくせに、急に怒ったりするけんどうしたいのかがわからん。」
と言われてしまったこともありました。
明らかに僕の距離感のミスだったので、素直にごめんなさいをするべきでしたが、まだ強がって余裕を見せたがる自分がいました。
当時の僕は、” 先生 ”としての自覚と責任が無く、子供の部分丸出しだったため、当然生徒にも色々なことを見透かされていました。
今となってみれば、と後悔することや、物凄く恥ずかしくなることが毎日山のようにありました。
当時の僕は、それでも一生懸命に働いていたつもりでしたが、やはり、何かあった時に矢印を自分の方に向けることが出来ていなかったため、トラブルがあっても、生徒のせい・同僚のせいと思いながら働いていました。
ヒットを打たれても、野手のせい・捕手のせいと思っていたあの時と全く同じですね。
そんなある日、部活動のためグラウンドに向かうと、練習をボイコットされていたことがありました。
いつも通りの時間に行っても、誰ひとりいないのです。
当時のキャプテンに携帯電話で連絡をしたのですが、
「全員で話し合ったのですが、先生のやり方にはついていきたくありません。」
という返事をもらいました。
他の先生に間に入ってもらい、みんなと話をし、どうにか翌日から練習を再開したのですが、一度できてしまった溝を埋めきれないまま彼らを卒業させてしまいました。
僕が、自分の行動をしっかりと謝罪し、かつ、彼らの行動について指導をし、お互いが納得したうえで練習を再開するべきでした。
彼らには本当に申し訳ないことをしてしまいました。
その学校の生徒には、ボスがいました。
僕からしても、見るからに怖く、大きく、強そうでした。
しかし実のところ、その子はとても繊細で、事あるごとに保健室へ行っていました。
自傷行為を繰り返している噂も多々聞きましたし、実際に腕や太ももは傷だらけでした。
僕はどうしてもその子が気になり、その子が授業を抜けて保健室へ行く姿を見かけるたびに、後ろから保健室へついて行き、話すようになりました。
彼の傷はあまりにも痛々しく、これまで本やテレビでは見たことがありましたが、実際にそんなことをしている人は初めて見たので、かなりのショックでした。
どうにか自傷行為をやめさせたいと思い、
「自分で自分を傷つけよるのは見よるこっちも辛い。それやったら物とか他人にあたりよる方がまだ本能としてマシな気がするで。」
というようなことを伝えたことがありました。
その数日後、彼は同級生に暴力をふるいます。
処分として彼は停学となるのですが、その日の夕方に処分を不服とした彼の家族や仲間が学校に来ました。
彼の家はヤクザ稼業のようなことをしていたのでしょうか。
何人もの組員のような人たちがバットを持ち学校の外から
「吉村を出せ。」
と叫んでいました。
「うちの子は停学にされてしまったが、その原因はお前が他人を殴れと言ったからだ。だからそいつもクビにしろ。」
という言い分でした。
(そういう風にとられるのか。)
と思いましたし、言葉に気を付けなさいという先輩たちからの言葉が身に染みてわかりました。
僕はどうすることも出来ず、でもこのままでは学校に迷惑がかかってしまうので、1人表に出て行こうとしました。
しかし腕を引っ張られ、職員室に残るよう指示をされます。
学校で一番年長の先生が、表へ出ていってくれました。
・当然、僕がそんなつもりで発言したわけではないこと。
・生徒が保健室へ行くたびに、僕が後ろを追いかけて行き、一緒に保健室で話をし彼を支えていたこと。
・生徒も僕を頼りにしており、今回のことにしても甘えていること。
・これが理解できないのであれば、保護者として問題があること。
をはっきりと丁寧に伝えてくれました。
親や仲間たちはまだ怒っていましたが、生徒本人が何かに気が付き、トーンダウンし、家へ帰っていきました。
とても怖かったですが、その先生が毅然とした態度で、矢面に立ち、スッと前に行ってくれた姿が本当に格好良く、こんな先輩になりたいなと強く思いました。
それと同時に、電気屋の時の店長の、
「吉村くぅん。はよ土下座してぇ。」
というセリフの記憶もよみがえってきてイラっとしました。
身体面にもだいぶ変化がありました。
これまでキックボクシングのジムに通い、夜は毎日1キロ泳ぎ、4月からも野球部の生徒と同じメニューに取り組むなど、運動量はかなり多い方だったのですが、夜中の水泳後に、毎日お好み焼き屋で大盛りお好み焼きを食べる習慣がついてしまっており、驚くほど太っていっていました。
怖くて乗っていなかった体重計でしたが、勇気を出して乗ってみると、81.6キロありました。
高知県のFMラジオの周波数81.6(ハイシックス)MHzと同じであり、本当に驚いたので、はっきりと覚えています。
ちなみに数字に関してのこだわりが一つあります。
以前、これもまたノムさんこと、野村克也さんの本を読んで知ったのですが、ノムさんは82番や73番など、足して10になる数字にこだわって背番号を決めていたそうです。
縁起をかついでいたんですね。
僕はそこで気が付きます。
1982年2月8日産まれの僕は、足して10で作られていました。
足しては無いですが出席番号も10番でした
入籍も、2021年11月12日にしました。
足して10になるからです。
僕は身長が163(足して10)センチしかないので、かなり丸々した体型でした。
このままでは本当にやばいと思い、ダイエットを始めることを決意します。
まずは足して10になる73kgを目指すことにしました。
1日1食、お昼ごはんのみを食べるようにし、26歳から毎晩飲みだしたお酒も糖質ゼロのものに変えました。
僕は数字が変化していく事がとても好きでして、日に日にみるみる体重が減っていく事がとても楽しく、楽しみながらダイエットをしていました。
丁度1か月で、10kgの減量に成功し、その後も順調に体重を減らしていきました。
それ以来、まるで趣味のように、体重が増えては減らすという作業を繰り返すようになりました。
これまでソフトボール・野球・ボクシング・キックボクシング・水泳・マラソンと様々なことをしてきました。
体育祭のオープニングで来てくれた近所の和太鼓チームの演奏を見て一目惚れし、その日のうちに入会させてもらうこととしました。
新しい趣味がまた増えてしまいました。
音楽は本当に好きですし、和太鼓演奏者が年々減ってきている中での入会ということで大切にもされ、毎日仕事終わりの練習が楽しくてたまりませんでした。
3年目には生徒たちとチームを組み、普段の練習とは別枠で練習時間を確保し、一般の和太鼓大会へ出場し、3位入賞を果たすこととなります。
しかしここでまたミスをしてしまっていました。
まずは、
「曲をお借りします。」
と許可をもらってはいたものの、編曲するとは伝えておらず、曲提供や指導をしてくださっていた先生を怒らせてしまったこと。
次に、もちろんそうならないように気を使っていたつもりでしたが、元々お世話になったチームをないがしろにして、自分だけ子どもたちと楽しんでいたようにとらえられてしまっていたことです。
本当にそんな気持ちは全くなく、学校教育の一環のつもりで取り組んでいましたが、周りが見えなくなるほどやってしまう僕の癖が、また悪い方に話をすすませてしまっていました。
頑張れば収集はついたのでしょうが、その努力をせず、謝罪だけして、そのチームの練習から少しずつ足が遠のくことになりました。
またやめてしまうんですね。
こうやって書いていたらよくわかりますが、本当に何から何まで、次から次にやめています。
趣味に関しても、最初に新しく始めることがとても好きで、毎日が異常に楽しくなるのですが、すぐに飽きてしまうのです。
何より一番はトラブルがあったり、その世界でのトップの人を見て、勝てないからと嫌になってしまっています。
話は少し変わるのですが、これは未だにそうで、やらせることよりも一緒になって取り組むことのほうが好きです。
部活動のトレーニングメニューにしても、それが無茶なものとなっていないか、効果はあるのかを理解しながら教えたいため、必ず一緒にそのメニューに取り組みます。
「そんなのは先生じゃない、どっしりと座って構えて、教えることに集中しなさい。」
と、ほとんどの先輩から指導されてきましたが、どうしても一緒にやるということをやめることは出来ませんでした。
きっとこれは自分に自信がないことへの裏返しで、与えるメニューにも自信をもてていないのだと思います。
29歳の時に、私は仕事を一年間休んで通信制の大学に入りなおすことにしました。
数学の教員免許を追加取得するためです。
大学時代に、公民と商業の教員免許を取得していたのですが、大好きだった数学の免許は持っていませんでした。
実は一度24歳の時に通信制大学に入学し、チャレンジしようとしていたのですが、教科書の内容があまりにも難しく、それ以上挑むことなく、お金だけ払って逃げてしまっていました。
その時の入学金などを全て母親に返済し終えたので、再チャレンジすることとしました。
結局今度も初見では、ほとんどわからなかったのですが挑みました。
30歳という節目の歳になる前に、自分でやりきりたいと真剣に考えたからだと思います。
また、自分で理解できない箇所については、ネットで聞いたり、高校時代の恩師を頼ることとしました。
わからない所を電話で聞き、ファックスで答えてもらい、少しずつですが理解を深めていきます。
今考えると、努力したりヒトに頼ったりすることは当然のことと思えますが、それまでは本当にそれが出来ていませんでした。
小学校の時に、少しだけヒトより色々なことを出来たという経験にしがみつきたかったのです。
ここで教員免許をとれたら、その呪いから解き放たれるのではないかと思っていました。
お母さんにお金を返し、大学時代の未払いだった年金を全て払いきり、1人暮らしをはじめ、細々と貯めてきたお金を全て吐き出しながら免許取得に力を注ぎました。
通常だと2~3年かかるよと言われていたのですが、きっちり1年で全ての単位をとり、数学の高等学校一種免許を取得しました。
もちろんたくさんの人に助けてもらったのですが、自分でようやく一つのことをやりきった気がしました。
やっと今の自分になった~香川県~
30歳になるタイミングで高知県を離れることを決意しました。
ハローワークに行き、私立高校の求人を探しました。
そこで、現在働いている、香川県の私立高校を見つけます。
ハローワークの方からは、
「あなたが10人目で、これまで受けた9人は全員不合格ですよ。だいぶ難しい学校かもしれませんね。」
と伝えられましたが、久しぶりに自信満々モードだったので、受かる気しかしませんでした。
何より、みんなが落ちているなんて言われたら余計合格しようという気持ちが湧いてきます。
課題となったのは、模擬授業と面接です。
模擬授業では、遠慮なく理事長や校長、教頭などを生徒に見立て、授業を展開していきました。
大きな声で気持ちの良い授業をすることだけを心掛けて行こうと決めていましたので、爽やかに出来ました。
また、使う言葉は難しいものではなく、誰が聞いても理解できるような簡単な言葉で説明することも決めていました。
これは携帯電話販売の時から決めていたことで、どんなにこちらが立派な言葉を使っても、専門的な言葉を使っても、相手に伝わっていなければ全く意味がないなと感じたことからきています。
面接では、当時の教頭先生から
「みんながお茶を飲むんやけど、それの片付けをする人がいません。どういう風にすればみんながきちんと片付けてから帰ると思う?」
と聞かれたので、
「順番を決めるなどすれば良いのかもしれませんが、60人いる教員全てがミスなく動くとなると本当に難しいと思います。僕が毎日片付ければ、大変ではありますが、僕だけの問題なので毎日綺麗に一日を終わらせられます。」
と答えました。
数日後に無事合格をもらい、翌年度から高知県を離れ、香川県に引っ越すことが決まりました。
2年間は臨時教員扱いで3年目からは教諭として採用するという条件でした。
4月になり、香川県での生活が始まります。
そこで、僕の人生を大きく変える出会いがありました。
彼が担任で僕が副担任、彼が顧問で僕が副顧問という、セットになった先生です。
これまでたくさんの先生・ヒト・先輩を見てきましたが、ここまで生徒のことを一番に考えているヒトは初めてみました。
「生徒・お客さんが一番大事です。」
なんて言っている人はたくさん見てきましたが、本当に愛情をもって、厳しく厳しく、子供たちの将来を考えて指導している、初めて見る人でした。
話すタイミング・間・言葉のチョイス、魅力的とはまさにこのことであり、男の僕から見ても、惹き付けられるようなヒトでした。
彼からは大切なことをたくさん学びました。
学校でも四六時中ずうっと一緒でしたし、住むところも近かったので、彼の話を常に聞いていました。
5年間ほどにわたって、ほぼ毎晩一緒に飲みにもでていました。
とは言っても相手から誘われたことは一度もありません。
「先輩から誘ったら断りにくいだろうから、俺から誘うことはないよ。」
ということでした。
数年すれば、誘わなくても、生活リズムがほぼ同じとなり、食事に出れば彼が常にいるような状況にすらなっていました。
彼からは、
・生徒には、してもらうのではなく、させること。
・生徒を叱るのであれば物理的に長時間寄り添うこと。
・一度叱ったら、出来た時に必ず何倍も褒めること。
・叱るのであれば生徒が納得する形で叱ること。
などを学びました。
言われてみれば当たり前のことばかりですが、それを実際に当たり前に行えている人に出会ったことはありませんでしたし、これまでも彼と僕以外に、徹底している人と出会ったことがありません。
これも学んだと言っても、言葉で聞いたわけではなく、彼の行動を見て、自分が気付いたことしかありません。
なので学んだというよりは気付かされたという方が適切かもしれないですね。
そして、未だに僕のことを叱ってくれる数少ない人の一人です。
彼から学ぶことは、生徒と友達のように仲良くなりたいと思っていた自分には、目からうろこでした。
30歳にして、ようやく僕は、真剣に ”先生” になりたいと思うようになりました。
嫌われるかも、とか、間違っているかも、なんてことは一切考えずに、どれだけ嫌われようとも、陰口たたかれようとも関係なく、将来的に、もしくは現段階で生徒の為になるのであれば、必ず指導をするようになりました。
生徒から逃げず、だめなとこはダメ、良いところは良いではっきりと伝えるようにもしました。
部活動では全くプレーしたこともないしルールも知らないバスケットボール部の顧問となりました。
中学生の自分が、本当の自分では無かった時に、同級生がやり始めて、僕が置いて行かれたように感じたあのスポーツです。
年間丸一日休みの日は5日あるかどうかでしたが、12年間どうしても仕方がない時以外は全て練習に参加し、アップのメニューやトレーニングメニューを提供し続けました。
顧問の先生は全国レベルでやってきた方で、大学や社会人になってもプレーしていたような方でしたが、素人の僕にもトレーニングの時間を毎日一時間任せるなど、信用してくれていたので、僕もその気持ちに応えるため、また、生徒へ必ず結果を出すため必死にメニューを考え、取り組ませてきました。
その結果、全くバスケをしたことがないのに、良い指導をする教員がいるぞと、県内外問わず噂されるようなこともあったようです。
最近では、以前のように、わかりやすく生徒が寄ってくることはなくなりましたが、卒業式や卒業後に、僕が一生懸命叱った生徒たちが訪ねてくるようになりました。
それまでは全くの逆で、毎日キャッキャと生徒が寄ってきていたのですが、卒業後に訪ねられたり頼られたりすることはほとんどありませんでした。
働いて数年がたつと、ある程度の仕事の流れをつかめたので余裕ができ、色々なことに気が付くようになりました。
特に、私立高校は異動がほぼ無いので、メンバーが全く変わらず、淀んでいることがとても気になるようになりました。
人が動かなければ当然力関係も変わらず、リーダーの力量によっては、どんどん衰退していきます。
たくさんの先生が働いているのですが、ほとんどの人は現状に満足しており、生徒のことを考えることも少なく見えてしまいます。
欠席や問題行動など、生徒に何かがあっても、それらを生徒の責任だとし、反省や向上心なども無い人さえいるように見えました。
また、最近の学校現場は発達障害・学習障害という言葉が大好きです。
学校現場と言うか、世の中がそういう風潮にあるように感じます。
もちろんそう認めてあげなくてはいけない生徒も若干名いるのかもしれません。
しかし、猫も杓子もその言葉で済ませようとすることは大嫌いです。
全てに適用することは、完全な教育の敗北だと思っています。
出来ない生徒を出来るようにしてあげるのが教育です。
簡単に教育の負けを認めておきながら、自分の非を認めない教育者達に腹が立ち、一緒に働いてもストレスばかりがたまるようになってしまっていました。
以前の自分とはえらい違いですね。
いつしかそんな自分を大好きになっていました。
学校自体、明らかに生徒数が減っていっているので、これまで様々な意見を出したり、生徒募集のための企画を報告・提出するのですが読んでもらえること、聞き入れられることはありませんでした。
「現状に不満を持っていると上に目をつけられ、クビになったり、嫌がらせを受けるかもしれないから、下手に動いて目立たないほうが良い。」
なんてことも耳にするようになってきました。
僕は
(そんなことで本当にクビにされるような場所であれば、大切に思う必要はないな。)
と思うようになっていました。
何人かの先生から、
「この状況で全く周りの先生たちに染まらずに、自分を貫いているのは凄いですね。」
と言われることが増えてきましたが、
(そんなことよりも、まずは一緒に一生懸命働こう!)
としか思っていませんでした。
最近では、何人かのそういう発言に触発され、頑張ろうとする先生も少しずつですが増えてきました。
とても嬉しいです。
ここで気が付いたのですが、これまで、頑張ってみたり、バスに乗ってみたり、リーダーシップをとったり、さぼったり、挑んだり、逃げたりと様々なことがありましたが、一貫して言えることは、誰かに誘われたりして行動したことがないということです。
小さい頃から、全て自分で決断してやってきていました。
なので頑張ると決めたことも、自分が頑張りたいと思っている間は、誰が何を言っても、誰が何もやらなくても、そんなことは僕の人生には全く関係なく、やることができます。
やめる時も同じです。
誰かが説得してくれたとしてもやらないと決めたらやりませんし、釣り竿やリールを買う時も、いくら安くても欲しくないものは買いません。
逆に高くても欲しいものは買います。
これは僕自身の好きなところです。
今の職場は、例年通りという言葉が大好きで、形を変えることにとても臆病になってしまっています。
給料は年齢によるものなので、サボろうとも頑張ろうとも変わらず、一生懸命現状を変えるため考えている人達が、白い目で見られるような場所となってしまっています。
最近は生徒数の減少が顕著で、経営も厳しいのだと思いますが、給料の大幅なカットやボーナスの減少、また、退職金のかなり大幅なカットが決定しました。
それでも学校は何の動きも見せません。
ただ、じり貧で生徒数が減少していくのを、黙って見るという選択をしています。
丁度これを書いている本日は、合格者登校日だったので、来年度の新一年生の人数が確定しましたが、12年前に来た時よりだいぶ生徒数は減ってしまいました。
ほとんどの人が緊張感なくいつも通りに見えました。
数年後に学校が潰れようとも、その時には自分はいないので関係ないとでも思っているのでしょうか。
もしそうでしたら凄く寂しく思います。
今後20年後も残る若い先生たちのために、今頑張らないといけないんだという話を何人かにしてきましたが、当の若い先生たちもそこまで緊張感はないように見えました。
因果応報でしょうか。
一生懸命働くようになってから、これまで自分がしてきたことが全て自分に返ってきている気がします。
一生懸命な人を馬鹿にしたり、努力をしなかったり、強がったり、どこを向いても、誰を見てもまるで過去の自分を見ているような気がします。
何度も言いますが、そういうことをする気持ちはよくわかりますし、否定をする資格もないです。
他の人が一生懸命だった時、ぼくがそれをしていたのですから。
ただただ、これからは僕自身が一生懸命働くしかないと思っています。
教職員たちも、我々は公務員ではなく、会社員であるという自覚がないように思います。
僕は私立高校の教員は会社員であると割り切っているので、社長が給料を減らすというのであれば仕方がないと考えています。
そのことに関して、不満はありません。
その変わり、減る分を自分の力で補填させてほしいなとは考えています。
妻も同じ系列で働いているので、二人合わせると生涯賃金が5,000万円ほどカットされることとなり、子供の習い事や、次の子供の予定、親の介護など心配になることが増えてきました。
なのでWワークを考えるようになりました。
数か月で10社ほどの面接を受けたり、フランチャイズオーナーになることを検討しましたが、絶対にこれをしたい!と思えるもには出会えませんでした。
そんなある日、以前の僕の教え子と連絡をとりました。
その教え子は面白い経歴の持ち主で、小学生の時に、担任の先生が
「今日から宿題を増やしますね。」
と言った時に、同級生たちが、
「やったー。」
と喜んでいる姿が気持ち悪いと感じてしまい、それ以降小中学校を不登校として過ごすようになったそうです。
その子は高校から学校へ通いはじめます。
しかし、とてもポジティブなのです。
異常にです。
そして空手のチャンピオンで代表に選ばれるような選手でした。
しかし偉そうにすることもなく、喧嘩することもなく余裕のある子でした。
高校卒業後に理学療法士を目指し、必死に勉強して国家試験に合格するのですが、1年たたずして理学療法士はやめます。
その後フィットネスをヘルスケアの領域にしたいという強い気持ちを持ち続け、ジム経営やyoutube活動をしており、連絡をとるたびにやっていることが大きくなっていっていました。
彼と会って話をしていると、良い案は次から次に受け入れ、気持ちが良いほど、前を、上を見ているのが伝わってきました。
その場にとどまる事を嫌い、常に進んでいることがわかりました。
どんな提案をしても見てさえもらえない僕の現状が、とても悲しくなってきました。
たくさんアドバイスをもらい、数日後に彼の会社のGMとWEB面談をすることとなります。
そこでも大きな出会いがありました。
WEB面談の最中、相手方からいくつかの質問をされます。
何気ない質問なのですが、それに答えていくと、いつの間にか自分の本質を口にしていることに気が付きました。
答えにスルスルーっと引き込まれていく感覚があり、僕がしたいことは塾経営でも無人販売でもないことを知りました。
良くわからない内に導かれた僕は、
「今の技術は一体何ですか?」
という質問を投げかけます。
実はこれはコーチングと言うものですという説明を受けました。
その話を聞いている途中から、既にこの仕事をしてみたいなと思いはじめていました。
マインドセットコーチングスクールの説明会が近日中にあるという話を聞き、申し込むこととなります。
それからは既に自分の人生の時間が変わってきています。
仕事への行き帰りの時間に、運転中でも聞けるよう、いただいた動画を録音し聞く。
毎晩、家事が終わり、子供を寝かしつけてからの空いた時間は全て本を読んだりマインドセットの動画を見る。
仕事の合間にも空いた時間があれば本を読む。
何より変わったのは生徒への話す内容です。
僕は自分が努力をしてきていないため、進路の話しをすることに全く自信がなかったのですが、今では子供達に、何をしたいか、そこでしたいことは何か、このまま何となくやりたい訳でもない会社に入って何十年も浪費することがどれだけ恐ろしいことかを 話すようになりました。
僕のクラスの進路への意識がどんどん高まり、僕を含めたクラスのほとんどが自分の将来を考え、やりたいことを探す毎日を送るようになっています。
学校などはよく、進路100パーセントを実現などとうたっていますが、基本的には落ちても落ちてもどこかに詰め込んで終わりとしています。
当然その子たちはすぐに仕事も学校もやめてしまいます。
今、たくさん話をし、僕と一緒に変化していっているクラスの子たちが、どのような進路選択をし、将来どのようになるのかを見ることが楽しみでたまりません。
僕は自分の手の届く範囲だけは責任をもって指導していこう、と決めて働いています。
きっとそれはこれからも変わりません。
ただ、手の届く範囲を広げてみたいと考えるようになりました。
僕自身が動けば、そこが手の届く範囲となり、僕の責任を発揮する場所となります。
お父さん
僕の人生において、親であるということだけではなく、特別に深い想いがあるのがお父さんについてです。
今ではほとんど会話もなく、連絡をとれたとしても喧嘩するだけのお父さんですが、お母さんが小学校の教員をしており、お父さんは自営業で電気屋を営んでいたため時間の自由がきき、よく遊んでもらった記憶があります。
コロちゃんパックというシールの貼られた、ウルトラマンや仮面ライダーなどの歌が入ったカセットテープを、軽トラやボンゴという車で流しながら一緒によく歌っていました。
ウルトラマンタロウの歌を一緒に歌っていたことが一番記憶に残っています。
また、ふとした時によく思い出すのが、父方の実家の近くにあるクリハラというスーパーに行った時のことです。
50円を入れると動く車の乗り物があり、どうしてもそれに乗りたくて、ゴネてゴネて50円をいれてもらったのですが、動き出した瞬間に何故かとても恥ずかしく感じてしまい降りてしまいました。
誰も乗せず動いている車を二人で並んで見ていました。
お金だけ使わせてしまい、ものすごくもったいないことをしてしまったと思い泣いたことも覚えています。
僕がいまだにものすごくケチだったり、細かかったりするのは、この時のことと、小2の頃の卵焼きをおばあちゃんに叱られたくだりが原因していると思っています。
いじめっ子の家へ連れて行ってほっぽりだして先に帰ったり、泳げない僕を川やプールにほっぽりだしたりと、なかなかの荒療治もしてくれていました。
感謝をしています。
キャッチボールも教えてくれたし、一緒に歌もたくさん歌いました。
小さな子供が大好きで子や孫、親戚の子なども非常に可愛がっていました。
優しい人です。
ここからはお父さんをあまり良く言わない時間となります。
しかし、結論から言いますが、僕はお父さんのことが大好きです。
仲良くしたいと未だに思っています。
また、兄姉ともに、それぞれの立場でお父さんと一生懸命に関わっていることもここに記しておきます。
お父さんはお母さんを大事にしない人でした。
でもきっと本人にそんな気は少しも無かったんだと思います。
口癖は、
「お父さんはお酒も飲まんし、ギャンブルもせん。どこに文句があるがかわからん。」
でした。
お父さんは庭にゴミを捨てる人でした。
お母さんと僕が拾っても拾っても捨てます。
拾っている僕たちの上に捨てます。
肺も弱く、一日中痰が出ています。
それも庭にはきます。
彼が捨てた煙草を拾っている僕たちの上にもはきます。
煙草を拾っている僕たちの上に、火のついている煙草を捨てます。
その行動の理由はわかりませんでしたが、きっと理由は無いのだと思います。
大人になって二人暮らしをするようになった時、ごみを観察するようにしてみました。
どうやら濡れている物を外に捨てているようでした。
ヨーグルトの容器やジュースを飲んだ後のペットボトルなど、アリが寄ってくるような物を家の中に置いておくと虫だらけになるからと捨てていたようです。
そういえば昔から、お母さんが観葉植物などを置いたら怒って勝手に外に捨てたりしていました。
じゃぁ煙草は?となりますが、煙草の灰は虫よけになるという持論があるらしく、一生懸命に捨てていたようです。
とにかく謝ることができず、言い訳ばかりがスラスラと出てくる人でした。
誰かさんとよく似ているなと思います。
お母さんは我慢をしていました。
お父さんももちろん我慢をしていたのでしょうが、我慢をしていないように見えました。
二人は毎日喧嘩をしていました。
離婚すると言われ、家を出るためにランドセルに荷物を詰めたことも何度かあります。
必死に泣いて止めましたが、数年後に、
「お前があの時止めんかったら別れれちょったに。」
と言われたこともあります。
このセリフが一番こたえました。
「お前のお陰で別れんですんだで。」
と言われると思っていたからです。
一緒におることだけが決して良い事じゃないんだなということをその時知りました。
二人はいずれ殺し合いをするだろうと思っていました。
大学へ行くときも心配でたまらず、親戚や知人に電話をかけ、二人をお願いしますと伝えました。
小学生に上がる前にお風呂場の中で、
「お父さんとお母さんどっちが好き?」
と聞かれても、
「どっちも同じくらい好き。」
と答えるようにしていました。
そうじゃないときっと大喧嘩になるからです。
小さい頃からずっと二人が喧嘩するかしないかだけを気にしながら生活をしていました。
朝起きてすぐも、食後も、壁の向こうから二人の声が聞こえてくると、壁に耳をあててずっと聞いていました。
喧嘩になっていたら止めにいかないといけないからです。
小さい頃には毎週末、船で魚釣りに出ていました。
お母さんが作ったお弁当を持って家族3人で海へ行きます。
日が照っている中置いておいても腐らないように、お弁当は決まって、梅干しの汁がたくさんかかった酸っぱいおにぎりを、薄く焼いた卵で包んだものでした。
未だに大好きで、家族で出かける時は作ったりします。
両親は海の上でも必ず喧嘩をしていました。
どれだけやめてほしいと伝えてもやむことはありませんでした。
関連してですが、子供好きのお父さんは、喜んでもらうことが大好きです。
「魚はこうやって釣るがぞ。」
と言いながら見本を見せてくれてから釣り竿を渡してくれるのですが、竿を預かった時には、必ず魚が釣れていました。
最初は凄い凄いと褒められ喜んでいたのですが、ある日物凄く子供扱いされていることに気が付きました。
釣れたか釣れないかではなくて、子供ながらに釣れるまでの過程を楽しみたいと思っていました。
なので、
「釣れてから竿を渡すがはもうやめてや。」
と伝えました。
お父さんは寂しそうに見えました。
しかし当然、
「そんなことはしてない。お前が自分で釣ったがや。」
の一点張りで、決して認めませんでした。
ここら辺も未だに変わりません。
嘘がばれてもその嘘をつき続け、最後は
「子供のくせに生意気を言うな。」
と怒り始めます。
結論僕は6歳くらいから自分で糸を結び、針とカゴをつけ、エサもつけと、釣りに関して自立ができました。
良い教育方法なのかもしれません。
とにかく色々なことが自分で出来るようになっていきました。
話を戻します。
大学生になってからも、両親の喧嘩のことばかりを気にして、しょっちゅう家に電話をしていました。
「最近どんな?」
という僕の質問には、最近喧嘩はしてない?という意味が込められていました。
親からの返事は決まって、
「いつものことよ。」
であり、それを言われるたびに、心配でたまりませんでした。
長期休みも全て実家に急いで帰りましたし、卒業後もすぐに地元へ帰りました。
自分がきちんとしておらず東京に馴染めなかったことももちろんありますが、心配でたまらなかったのも本当です。
僕が携帯電話の販売員に見切りをつけるタイミングで、お母さんから
「もう家を出て行ってかまんかい?」
と聞かれたので、僕は
「ええよ。」
と答えました。
お母さんはいともあっさりと家を出て行き、僕はお父さんと二人暮らしになりました。
お母さんがいなくなると数日で、綺麗な家をキープすることができなくなってしまいました。
僕が手伝っていたことなんてほんのわずかな作業であり、お母さんが、何十年にもわたって、どれだけ掃除をしていたのかがよくわかりました。
「水回りだけは本当に綺麗にしちょかんといかんで?」
というアドバイスをもらい続けていたものの、大きな一軒家であり、お父さんが汚し続けていることへのいら立ちもあったので、真剣には取り組みませんでした。
庭のゴミ、家の中のゴミは増え続け、テレビに出てくるようなゴミ屋敷になりました。
年に何度かは実家に顔を出していた甥や姪も、あまりの汚さから、寄り付かなくなり、本当に二人になってしまいました。
僕はそれに我慢できず、お父さんと話す時も、
「掃除してや。」
みたいな嫌味しか言わなくなっていました。
お父さんが60歳の頃は、
「毎日仕事しよるのに掃除なんてする時間あるわけないろが!」
70歳の頃は、
「病気やのに掃除らぁ、いつ出来ると思いよるがぞ。」
80歳の今は、
「自分で息も出来んにどうやって掃除するがぞ。お前のせいで息が出来ん。ストレスをかけるな。殺す気か。」
という返事が返ってくるだけでした。
もちろん僕は嫌味を言うだけ言ってから、掃除をします。
1部屋につき大きなゴミ袋10袋以上の大量のゴミが出るのですが、
「通帳がなくなった、経費で落とせる領収書がなくなった。」
と毎回騒ぎ、ごみ袋の中身は庭にひっくり返されます。
掃除をどれだけしても、家は余計汚くなるだけでした。
どれだけこちらが正論を言おうとも、80年にもわたって作り上げてきた性格や生活は変わるはずもなく、望む変化は一つもありませんでした。
かと言って諦めることはできません。
(お父さんはこんな人や。仕方がない。)
と思うこともできず、僕は言い続けますし、掃除をし続けました。
学校の教員をしていて、どれだけ話しても、なかなか変わらない生徒は山ほどいます。
お父さんを見てきたからだと思いますが、そんなことは当たり前だと思えるようになりました。
他の先生であれば、とっくに諦める生徒でも、決して諦めることなく指導出来るのは、お父さんのお陰であると考えています。
本当にどんなことがあろうとも、折れることなく、しつこくしつこく指導をすることができます。
ある日(とは言っても、毎日がある日と言えるほど喧嘩をしていましたが)、物凄く大きな喧嘩をします。
お父さんから、これまでは決して言わなかった、
「殺すぞ。」
みたいなことを初めて言われました。
反抗期だった時の自分は、そんなことを簡単に言っていたくせに、親に実際言われてみるととてもショックでした。
「出ていけ。」
という言葉を受け、本当に出ていく決意をしました。
次の日にはハローワークへ行き、すぐに面接を受けます。
どうせ出ていくのであれば東京にでも、と思いましたが、四国から出ると、もう本当にお父さんと会わなくなるだろうなと思い、四国の中でも対角線にあり一番遠い香川県へ行くことにしました。
香川県に引っ越してからも、たびたび電話をしましたが、同じようなやりとりの繰り返しばかりでした。
「勝手に出て行ったくせに。」
「いや、自分が出ていけ言うたやん。」
みたいな子供の喧嘩ばかりしていました。
週に何度か、
「お前も含めて、兄弟誰も帰ってこん。おかあも勝手に出て行った。どいつもこいつもろくな奴はおらん。」
ということを僕に伝えるために、電話がかかってきていましたが
「まずは家を綺麗にする努力をしてみたら?」
という返しをして喧嘩になるだけでした。
今思えば寂しくてたまらなかったのだと思います。
本当に理由もわからずお母さんが家を出て行き、全く思い当たる節もないのに、上の兄姉二人も全く帰ってこなくなる。
時々会えていた孫たちも当然会いにもこなければ、電話もかかってこない。
唯一、一緒に住んでいた末っ子までもが勝手に家を出て行ってしまった。
あの、誰が見ても明らかに人の住む場所ではない家を、汚いと思えていないお父さんからすると、家族が離れて行った理由も一切思いつかないものだったのでしょうし、実際に未だにそう言います。
僕が30歳になり香川県に出てきたタイミングで、ようやくどろどろだった夫婦関係に幕がおりたようです。
離婚が成立しました。
二人の間に挟まれ、探偵や、弁護士やという、言葉を聞いていたので、ようやく聞かなくてすむなと思いました。
昔から関係は悪かったものの、以前は夫婦間だけの喧嘩でした。
その頃は、他人を巻き込んだドロドロを見せられ、聞かされていたので、また違う感情があり、夫婦というものに関して、マイナスなイメージしかありませんでした。
部活動があるので、年に何日かしか帰れませんでしたが、たまに帰っても、庭の、家の、部屋の、汚さを見て絶望し、
「掃除してよ?」
と言ってまた喧嘩することの繰り返しでした。
庭に積もるほど長年吸い続けた煙草のせいで、お父さんは重度の肺気腫になってしまっています。
家に大量に買ってある煙草を横目に
「もう煙草吸うたらいかんで?」
と言うのですが、お父さんは煙草を吸いながら、
「誰が煙草吸いよるがぞ。勝手なこと言うなよ?許さんぞ。」
と怒っていました。
今となっては笑えるのですが、当時は本当に笑えませんでした。
それ以降、もう関わることが本当に嫌になり、電話もブロックし、一切連絡をとらない日々が続いていました。
諦めず関わってきましたが、とうとう縁を切ろうと考えました。
しかし正直言うとずっと気にはなっていました。
マインドセットの宿題の一つとして、引っかかっている人間関係があれば動いてみてくださいというものがあり、これまで何度も何度も何度も何度も諦めたお父さんとの交流をもう一度はかることを決断しました。
どうにか連絡がつきましたが、長い入院生活と、コロナやインフルエンザに連続でかかってしまったことから、現在は自力で呼吸が出来なくなっており、大きなボンベを引きずりながらの生活さえも出来ていませんでした。
数年ぶりに見る顔は、お父さんではなく、見たこともないほどのおじいさんでした。
数年ぶりというより、黙ってゆっくりとお父さんの顔を見たのも数十年ぶりでした。
まともに向かい合って会話をしたことも記憶にないほどの関係になってしまっていました。
連絡をとってからの短い期間でも、急速に弱っており、酸素ボンベも通常のものでは間に合わず、高価な物に変更されたり、少しの風邪などで危篤となるほどに弱っていっています。
先日も、再び会うことができましたが、コロナ禍により、防護服越しでしたし、やはり喧嘩になってしまいました。
しかし喧嘩をした時に、
(まだまだ元気やん。)
と少しだけホッとしました。
お母さんに対してもそうでしたが、彼は女性に対して、とても横柄な態度をとる人です。
先日、思い切って手紙も書いてみました。
初めて一生懸命お父さんに手紙を書きました。
決して横柄な態度をとらずに、お世話をしてくれている看護婦さんに感謝をしてください、と伝えました。
看護婦と呼ばずに看護婦さんと呼んでみてください。
自分で出来ることは極力頑張ってみてください。
とも伝えました。
これはあなたから習ったことですとも付け加えました。
それから少し経ち、先日、お父さんと電話をした時に、初めて、
「看護婦さんが・・・」
と話していました。
これまで誰の言うことも聞かなかったお父さんが、82歳にして、初めて僕のいうことを一つ聞きました。
とても感動し、涙が出ました。
残り少ない寿命の父親と、これからも諦めずに向かい合い、一緒に最後を迎えてあげようと決めました。
小さい子が大好きなお父さんに少しでも元気をあげたいと思い、テレビ電話の使い方も教え、すこしでも顔を見せてあげるようにしています。
はるなちゃん
僕に結婚は無理じゃないかと思っていました。
毎日喧嘩をしている両親を見てきて、きっと僕も二人のように喧嘩をすると思っていたからです。
お母さんに会うたびに、親戚に会うたびに、
「あんた、もうすぐ40歳になるけど結婚はせんが?」
と聞かれていましたが、
「多分結婚はせんよ?」
と答えていました。
しかし、出会いがありました。
同僚の事務員さんです。
その時僕は、新しいことをしてみよう、出会いも探してみようと思い、( オタク婚活 )なるものに積極的に参加していました。
それが結構面白くて、ジャンルを変えながら参加していたのですが、職場での飲み会の時に今の奥さんに話します。
連絡先を交換し、一緒に行ってみようという話になり何度か一緒に行きました。
婚活パーティーが終わると、二人で居酒屋に入りその日の反省会などをしていたのですが、僕はもう彼女のことを好きになっていました。
というか、一緒に婚活に行く前からもう好きでした。
細かくてわがままで、気分屋の僕に振り回されながらも、彼女は楽しい楽しいと言ってくれます。
一緒にスノーボードへ行ったり、大阪へ旅行に行ったりするうちに、半同棲状態になりました。
僕が40歳になる年に、14歳年下の彼女と結婚することを決意しました。
何か物凄く恥ずかしくて、彼女が望んでいたようなカッコいいプロポーズもしてあげられていません。
ふざけたようなプロポーズをしてしまっています。
結婚式も、写真撮影も、新婚旅行も何もしてあげられていません。
奥さんは、気にしていないそぶりを見せますが、本当は気にしています。
何より僕が気にしています。
昨年子供も産まれました。
とても可愛い子です。
大切にしています。
奥さんと子供と三人で、しょっちゅう喧嘩もしながらですが、笑顔で生活できています。
先日、奥さんといつものようにスーパーへ買い物に行った時に、
「牛乳を買いたい。」
とせがまれました。
「買い物行くたびに3本も買いよるやん?」
と言いましたが、いつも買っている160円ほどの、僕が牛乳だと思っていた飲み物は、乳飲料だそうで、牛乳ではないとのことでした。
僕はそれを初めて知りました。
なるだけ、安い物をとうちの財布は僕が握っているのですが、結婚した相手に牛乳さえ自由に買ってあげていないことにショックを受けました。
その矢先に、職場から給料やボーナスカットの話しが出てきたため、転職やwワークについて真剣に考えるようになっていきました。
僕は奥さんや子どもに、たくさんのことをしてあげたいし、させてあげたいと思っています。
両親が喧嘩ばかりだったので、僕は喧嘩をしたくないとか、妻を幸せにとか、そことつなぎ合わせて考えているわけではありません。
結婚してくれたのだから、みたいな卑屈な気持ちはも全くありません。
ただ、一番手の届く範囲にいる奥さんに我慢をさせたくないのです。
お金のためか!と思われるかもしれませんが、ある程度のやりたいことをやらせてあげたいと考えています。
二人合わせて、月収100万円という数字を目標にたてました。
まずは二人でやり遂げてみせます。
さいごに
これはあくまでも2024年03月21日までの人生です。
これからもたくさんのことが起こるはずです。
振り返りを文字に起こしましたが、僕が香川県に来てから出会った先生と、毎晩飲みながら話していた時に、これらのほとんどのことは、彼に話していて、黙って聞いてもらっていたことに気が付きました。
それも、何度も何度も繰り返しです。
彼からはたくさんの事を学んだと言いましたが、生徒指導に関しても口頭で教えてもらったことはほとんどなく、
「それはこういう事だろうな。」
というふうに自分で気が付いたことばかりでした。
昔話も、別に聞かれたわけでもないのに、なぜか話してしまっていました。
(今思えば、その時に、30歳までの、またそれまでの自分の振り返りが完了していたんだな。)
と気付きました。
物凄く心配性な僕に向かって、彼の口癖は、
「大丈夫、大丈夫。」
でした。
僕がとても安心できる言葉でしたし、良い時も悪い時もずっと一番近くで黙って見てくれていました。
もちろんダメな時はダメと叱ってくれましたし、未だに叱ってくれます。
まるでコーチのように僕の答えを導いてくれていたんだなと改めて感じました。
最初の数年は、
「お金も大変やろ?わしには返さんでええけん、いつか誰かを助けてやってくれ。」
と言いながら奢ってくれていました。
僕は今回コーチングの技術を学び、その能力を存分に発揮していくことを決めています。
もちろん教育者としての能力も、更に伸ばしていきます。
これまで結婚してから、それっぽいことを何もしてあげていない奥さんにも子供にも、結婚式や新婚旅行をプレゼントします。
僕を産んで育ててくれた、お母さんにも、もちろんお父さんにも、これからお返し・恩返しをしていくことを決意しています。
want to ~ にまみれた人生を送る。
やってよかった
挑んでよかった
産まれてきてよかった
と思える人生を必ず送ります。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?