Vol.40 IT企業勤めから協力隊に。不思議な巡り合わせでカメルーンへ。前編
Bonjour !
PROCHE編集部です!
アフリカ専門の旅行コンシェルジュ、Africa Travelを運営されている河野さんのアフリカ半生について、ご本人にインタビューしてみました。
カメルーンでの活動を経て幸福論が変わった話や、現在エチオピアのエンジニアと新たにやろうとしているビジネスのお話など、河野さんのアフリカ半生をギュッと2本のnoteにまとめましたので、ぜひご覧ください!
法学部からIT企業、そして協力隊へ
Q簡単に自己紹介をお願いします。
A出身は大分県大分市で、高校卒業まで大分にいました。高校卒業後は、中央大学法学部に進み、卒業後はIT企業に3年間勤めあげた後、海外青年協力隊に応募し、そこからアフリカ関係の仕事に携わるようになりました。
Q法学部からIT企業に進んだんですね。
A実は、大学1年の最初くらいで「なんか違うな…」って思い始めて(笑)元々法学部に進んだのは、国際弁護士になりたかったからなんです。というのも、叔父が、僕が高校生のころから米州開発銀行というところで働いていて、その姿を見て国際的に活躍することにすごく憧れていたんですよ。
ただ、弁護士っていう線が消えて、じゃあ海外で働くにはどんな道に行けばいいのかって考えていたときに、その叔父から海外青年協力隊をすごく勧められて。実は叔父も米州開発銀行で働く前はJICAの職員として働いていたんです。
そこで当時、叔父から「国際協力の現場でIT人材が必要とされているから」と聞き、協力隊のIT分野の応募条件であった、3年間のIT関係での職務経験をクリアするためにIT企業に進みました。
Qすごく戦略的ですね!協力隊に応募された時には、行きたい国や地域があったのですか?
Aいや、実はそこまでこだわりがなくて、とにかく日本人が観光であまり行かないような地域だったらどこでもいいや、と思ってました。実際には、カメルーンに派遣になりました。
不思議な巡り合わせでカメルーンへ
Qカメルーンなんですね!カメルーンと聞くと、日本ではサッカーで有名なイメージですが、カメルーンに派遣が決まった時の率直な感想を教えてください。
A「おお、カメルーンか…!」って驚きました。ただ、他のアフリカ諸国よりも自分には馴染があったんですよね。これには理由があって、僕がまだ中学生だった2002年に日韓ワールドカップが開催されて、そのときに僕の故郷の大分県にカメルーン代表がキャンプに来たんですよ!
当時、カメルーン代表が遅刻して、毎日大分県内で「いつカメルーン代表は来るんですかね」と来日を心待ちにしたニュースが放送されてて、30代から50代くらいの大分県民にはカメルーンがかなり有名なんです。
だから、「母に協力隊に応募して受かったからカメルーンに派遣になった」と伝えたときは、「カメルーンだったらいいんじゃない?」って反応でした(笑)
Qすごい巡り合わせですね…!カメルーンに降り立った時は、どういった感情を抱きましたか?
A思ったより都会だなと思いました。地面は全て赤土で、藁ぶき屋根と土壁で建てられた家が並んでいて、牛を飼っている家族がいる、というイメージを抱いていたんです。
でも普通に街があって拍子抜けしました。
Qこれはアフリカあるあるですよね。カメルーンは「アフリカのミニチュア」と言われるほど、気候が多種多様なイメージがあります。カメルーンの気候について教えてください。
Aまずカメルーンに降り立った時に思ったのは、「良い気候だな」ということです。カメルーンは基本的に年じゅうあったかいんですよ。
ただ、カメルーン人は冗談交じりに「カメルーンには大乾季・小雨季・小乾季・大雨季とあるから四季がある!」って言うんですよね(笑)
また、気候の多様性については、僕は残念ながらそこまで実感できませんでした。
というのも、僕は主に最南端の南部州っていうところのみで活動していたんです。
でも、北から南までみると気候は全く違い、極北州っていうところはすごく乾燥していますが、僕の活動していた南部州はいわゆるジャングルがあるような気候でした。
Q面白いですね。河野さんが活動されていた南部州はどんな場所だったんですか?
A日本でいう、福岡的な立ち位置の都市でした。日本でも札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・福岡って六大都市があると思うんですけど、カメルーンにも似たような10州があって、その中の南で一番大きな都市で活動していました。
カメルーンではパソコンの故障と格闘する日々…
Qカメルーンでは、協力隊員として実際にどんな活動をされていたんですか?
Aカメルーンとしては、「IT教育に力を入れたい」というのがあったらしいのですが、当時はそこまでの水準に達していなかったんです。先生たちのITに関する知識は上がってましたが、学校の情報教室に行ってもパソコンが壊れているから授業ができないっていう課題がありました。
そのIT教育を行う環境を整えるために、僕は送られてきたっていう感じですね。
Qなぜパソコンが壊れてしまう、という状況が頻繁に起こっていたのでしょうか?
Aカメルーンの建物の一般的な窓は、構造上すき間ができてしまうんです。だから、そのすき間から砂やほこりが外から室内に入ってくるのですが、それがデスクトップ型のパソコンをダメにしてしまうんですよ。
また、頻繁に停電が起こるので、停電でパソコンの電源が切れた時にパソコンの部品が故障してしまうっていうことも結構起きて。
だから、先生と一緒にブローワーでパソコンに入った砂を1台1台掃除したり、壊れた部品のあるパソコンを5台くらい解体してそこから新たなパソコンを1台1台組み立てたり、といった地道な活動を続けていきました。
Qすごく大変そうな作業ですが、活動のなかでのやりがいにはどんなことがありましたか?
A毎日、学校の情報教室を開けていたんですけど、そこに毎日通いに来る生徒がいて、あまりに毎日来るので理由を尋ねたら「パソコン触るのが普通に楽しいから来てる」って言ってくれたことがありました。そのときは、自分もパソコンを触るのが好きでITに進んだということもあったので、素直に嬉しかったです。
以上、河野さんのアフリカ半生インタビュー前編でした。
カメルーンとの出会いなど、何か河野さんとアフリカの不思議な運命を感じてしまうような、面白い話をたくさん聞けました。
次回のnoteでは、カメルーンで得た新たな価値観のお話など、河野さんとアフリカとの繋がりについて、もっと深く掘り下げていきます。
お楽しみに!