見出し画像

フィリップ・K・ディック『傍観者』感想

ハゲだとか体臭だとか、なんとかかんとか。
企業は商品を売るために、とにかく身体的なコンプレックスを煽る広告を流すわけだけど、それを真に受けた人間がついにはその馬鹿らしい観念を政治的信念としてしまった。清潔党の誕生である。いつしか多数派になった清潔党は、清潔でないとみなして人間への弾圧を開始する……

この小説が面白いのは、じゃあ主人公は清潔党に反抗するかというと、そういうわけでもないところ。反対勢力としての自然党というも出てくるのだけど、主人公はそっちのほうにもいまいち、のれないでいる。
彼は不服従の態度をとる。

メタファーでもあるけど、直喩でもあるよね

清潔党は企業の広告を真に受けた都市部の住民、大して自然党はそれを免れた地方の人間……と、あからさまに現実の政治の話でもある。いわゆるアメリカの分断に関連付けて本作をあげるのもしばしば見られた。
すなわち、清潔党のイデオロギーがアメリカ民主党的なものの比喩なんだろう。
しかし同時に、政治的、党派的、イデオロギー的であることが『清潔』の比喩でもあると感じた。つまり「他人に清潔を強要するなんて、まるで政治警察みたいだ」……という怒りだ。

『臭いオタク』ネタ

くっせえオタクについては、よくTwitterで面白おかしく語られる。まあ、事実かもしれないけど。(わたしも実際、カードショップで異臭を放つ男と何度もすれ違ったことがある)
とはいえ事実だからといってそれをネタにしてしまっていいのかという話。たとえば、じゃあ容姿が優れない人がいたとして、その人をブスだのなんだといってネタにしていいのかという話でもある。これについては、抵抗を感じる人も多いのではないだろうか。
容姿という視覚情報を馬鹿にするのが許されず、体臭という嗅覚情報は天下御免で嘲ってよいというのは、奇妙な不均衡を感じる。おそらく、自分にとって他人事かどうかの気分によって違いがでてくるのだろうと推測している。
少なくとも自分の容姿についてあーだこーだ言われたくない人は、人さまの体臭についてもどうこう言わない方がいいと、わたしは思うよ。

主人公は殺される

小説『傍観者』に話を戻すと、主人公は家にやってきた統制警察をぶん殴る。暴れ回ったのち、冷凍処理を受けて粉々に砕かれる。略式の死刑執行である。
死の直前に、主人公は精神科医に診断書を受け取っていた。それを見せれば、刑罰から逃れられるのだけど……しかし、彼はそうしなかった。頭がおかしくなっているのは俺じゃなくてお前らの方だ。ということだろう。
ディックは、広告というものを嫌っていた。きっといまのネットメディアを目にしたら辟易するだろう……というか、わたしは辟易している。そしてその点でディックに共感している。

フィリップ・K・ディックが書き残した、あの言葉だ。

お前たちは根っからの罪深い存在だという嘘を信じ込まされたんだ。人間は絶対にそんな生き物じゃない、と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?