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「失われた3年間」という呪い

基本的に天邪鬼属性なので、自分でもそう思っていても、人から同じ意見を聴くと反論や疑義を思いついてしまうある意味厄介な質なのだが・・・

朝日新聞のPodcastで、コロナ禍の学生時代を「失われた3年」のような発言をしていて、それが逆に彼らに対する呪いとなってしまう場面もあるのではないかと思ったりした。

形はどうあれ、その年月は彼らのもので、その評価は彼ら自身の捉え方であるべきだろう。そんな時に、周りの大人が「可哀想」と語っていたら、彼らは「そうなのか」「そういうものか」と思ってしまうかもしれない。

こういうある種の決めつけというのは、基本的には自身の価値観や社会的な風潮であって、絶対的な真理ではない・・・筈だ。コロナ禍により様々な制約があったのは事実だが、その価値判断は様々だ。あるいは10年後、学生時代のその経験こそが社会の潮流となって、上の世代の価値観を吹き飛ばしてしまうかもしれない。

その時には、上の世代の「可哀想」という価値観を(うっかり)受け入れてしまった若者たちの方が、時代遅れの敗者となってしまうかもしれないのだ(言い過ぎか)。


とはいえ、自分もそのように捉えていたかもなぁとは思っていて、そのように捉えてしまう感覚も分かるのだ。なんとなればそれは先行する世代の特権のようなものでもあるし、時代の上下を問わず、異なる経験に対する価値観の衝突のようなものでもある。

だから一概に悪いと言ったものでもないし、むしろそうだからこそ、あえて疑義を呈してみようかと思ったりもする。

多様性というのは、そういうものだろう。


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