ハラスメントは政治闘争であるという捉え方
おはようございます。2024年9月3日です。
禾乃登(こくものすなわちみのる)2日目です。
朝日新聞PodcastのIOK会で、◯◯ハラスメントの多くは政治闘争であり、正しい正しくないの問題ではない…みたいな話がされていて、なるほどと納得してしまった。
いくつか考えさせられたことがある。
ひとつは「政治闘争」というものの捉え方だ。一定の集団におけるルールメイキングのためのやり取りが「政治」だというふうに受け取ったのだが、これってハラスメントに限らず、あらゆる場面で必要になってくる気がする。
例えば社内である課題が発生し、その解決のためのルールや部署がないという時にどうするか。
そんなことは、特に新しいビジネスの領域ではいくらでもある。
その解決を政治活動あるいは政治闘争と位置づけるなら、動き方はどうなるか。どう動くべきか。
二つ目は、ハラスメントが「正しさ」ではなく「政治闘争」にあるとするなら、その尺度は常に揺れ動くもので、逆に自らの価値観を反映させようと思うなら、不断の努力が必要ということだ。
それは今ある考え方を維持したい場合でも、変えたい場合でも同様である。
ルールとして不変のものになってしまえば、楽かもしれないが、それでは恐らく停滞するし、どこかで崩れてしまうだろう。
重要なのは、そこで「正しい」みたいな客観性を根拠にしていくのではなく、「自分はこう感じる」という主観性を意識していくことだ。
もちろん、そこに折り合いをつけるのも政治判断の一つだが、それは「正しいから」ではない。最低限「自分が思うから」である必要がある。
神の定めたルールではなく、人の政治闘争の結果であるなら、その距離感を持つことが大切だろう。
相手に訴えていく時も、そうした視点を持っておくことが必要かもしれない。
三つ目は、たまたま直近に読んでいたこの記事に関連する。
この記事で感じたのは、日本企業における「上司と部下」の関係性の危うさだったのだが、上司と部下の関係性というのも、ルールや真理ではなく、政治活動と捉えるなら結構イメージが変わってくる。
実際マネジメントが上手な人間というのは、(上司であれ部下であれ)相手へのネゴシエーションが上手ということだ。これもある種の政治闘争の結果といえるだろう。
指導や育成という要素が関わるから厄介なのだが、本来の関係性で考えるなら、上司と部下というのは権限と責任からくる役割分担でしかない。
上司に決裁させるのも、部下に行動させるのも、互いの政治的なやり取り(闘争)の結果なのだ。
なんとなく「政治」という言葉の響きや、社会的に表面化している「政治の世界」のイメージが強すぎて、普段の行動においてはそうしたことを意識することがないし、むしろ意識しないようにしている気がするのだが、その点を見直して、「政治闘争」あるいは「政治活動」として言語化すると、物事の捉え方や進め方も変わってくるのかもしれない。
本日は以上です。