静かに今はここで、やがて来るだろうそれを待とう 。
それは地球という星。広い宇宙の多くの星々の中にあって、そのひとつの太陽系の中に存在している「感情」というものを体験する極めてめずらしい星。これは地球の地上にある、とある場所の森と街のその境目に静かに存在している「七色書房」でのお話。
「いらっしゃいませ。ようこそ。」
「当店では、本はお求めいただけませんが…、あなただけの特別な物語をご案内させていただきます。」
店主は、七(なな)さんとか七色(なないろ)さんと呼ばれていますが、誰も本当の名前を知る人はいません。店主は、この書房を訪れる様々な人たちとのひとときの時間を一緒に過ごします。
そこで起きるのは、訪れた人の中にひっそりと沈んでいる過去の記憶と感情と、そして色彩との出会いです。それは時を超えて起きる解放の時間。ほんの少し色彩の力を借りて、本来の自分自身へと繋がっていく。店主の案内によって体験するあなただけの物語との出会い。それが七色書房の七色処方です。
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「俺なんかいなくったって」
「もうすることも無いしな…」
それまで長く勤めていた会社で定年を迎えたその人は、そう言って立ち上がりました。このところ午後になると時々この森と街の境目にある七色書房にやって来てはお茶を飲んでじっと考え事をしているようだったり、ため息をついたりして黙って座っていました。陽が落ちる頃になると、両膝を両手でぱんっと叩いてよっこらしょと言わんばかりに立ち上がり、右手を黙って小さく上げて挨拶をし、くるりと玄関の方へと歩き出して、街の方へと帰っていきます。
店主はその人が来る度に、その時々のその人のとても短い言葉に相槌を打ちながら、黙って二杯目のお茶を出したりしました。その人は会社の中では結構な責任のある、権限もある仕事をしていたようでした。
森と街との間を往復する散歩はしばらく続きました。やがてお店の中の調子のよくないところや手を入れた方がよさそうだと思うところを勝手に見つけては、ちょっとした修理をしたり調整したりし始めます。店主は黙って見ていました。今度材料持って来るから、と言って実際に釘やら金槌や木材の破片など持って来たりしていました。最初は、ほんの小さな片手で持てる軽い木材でした。その人はどれもこれも一度にではなく、少しずつ作業していました。
やがて定期的に訪れるようになった頃に、店主はこの場所は早朝からとても気持ちの良いところなのだと話しました。朝早くから働き出す店主が見ている風景のいくつかを話ました。夜と夜の終わりの、朝が来る始まりと朝の、空と森の色の変化についてや、鳥が早起きなこと。七色書房の周りによく来る動物たちのこと、毎日生まれる新鮮な空気に毎朝溢れているこの場所のことについてです。
それからしばらくして、その人は最初は思い立って踏ん張ったのでしょう。少し息を切らして歩いてきたその人と、すでにカーテンが開いた店の窓から店主との目が合いました。森の周辺を歩き始めたようです。それからは空が白んで来たころに来て店の周りを散歩したり、一休みしてから顔を出すようになりました。暇そうにさえ見えていたその人は、段々と朝の時間をゆっくりと過ごしているように見えました。
その人はまだ夜が明ける直前のころに家を出て来るようになり、相変わらず、ちょっとしたところを修理したりは続いていましたが、一杯目のお茶は朝の時間のお茶でした。店主も用意した朝用の目覚めのお茶を出します。そしてその人は、どうも少しずつ言葉数が増えていくようでした。そうして作業後に二杯目のお茶を飲んでしばらくすると、膝をぽんっと叩いては立ち上がり、まだ陽が高い道を街の方へとすたすたと戻っていきました。変わったのは、手が膝で跳ねるようになり、叩く音が軽くなりました。
それから何度目かの時にその人はお茶を飲みながら言いました。
「本当にどうでもよかったんだけどね、いろんなこと」
「息子も娘も嫁もみんな好きにやってるし、やることないし」
「だけどさ、なんかちょっとやってみっかなーと思って」
「昔っから。ちょっとしたところ見てこうしたら使い勝手が良くなるんじゃないかなーとかさ、つい見てると考えちまうわけ」
「近所の年寄りとかこういうの得意じゃないやつ、結構いるんだなって思ってね。」
店主はその人の持ち歩いている、金槌やのこぎりが最近ぴかぴかに磨かれていることに気が付いていました。
「昔からの知り合いがさ、来ないかって」
「これまで勤めていた企業とは違って、仕事は不規則だし結構力仕事だし、個人の会社で来てもらうのが申し訳ないくらいだって言われてさ。営業もやってみるといいよなんて言うもんだから、いやいやそりゃあ困るよ、出来ないよ、なんて話したんだけど。」
「リフォーム屋に世話になります。」
時々は来させてくれよと言って、その人は街へと帰っていきました。いつもになく何度も繰り返し頭をちょっと下げて、恥ずかしそうにしていました。
新しい何かを見つけ始めたようです。
ここには様々な街での話を持って来る人たちがたくさん次から次に訪れてお茶の一杯を飲んでいきます。しばらく時が過ぎたころ、一つの噂を耳にしました。それは街一番の世話焼きで腕のいいリフォーム屋さんのお話です。
end
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●色彩とその場所からのヒント
このお話が一番気になるというあなたへ。あるいは「黒」を9つの枠の中で、今はこの場所に置きたい、というあなたへ。
あなたへの七色処方
何かそれまであった環境や立場を失った時、急に何かが見えてこなくても慌てないでいましょう。今は移行期なのかもしれない、と考えてみましょう。自信も無くて自分の存在自体を低くしてしまうような思いになったり、他者にそのような発言をしてしまうことがあるかもしれません。これまでとは違うやりがいのようなものを求めて、目の前の現実との落差にがっかりしてしまったりすることもあるかもしれません。
そんな今は、例えば朝の力を借りましょう。早くに起きて、昇る朝日に出会ってみましょう。生まれたての多くの人がまだ触れていないような朝の爽やかで新鮮な空気に触れて散歩しましょう。また動物と出会ったり、季節の植物を眺めたりするゆっくりした時間を作りましょう。
あるいは、予定を立てること無くのんびりとお茶を飲んだり、一緒に居られる人と時間を共にして他愛のないお喋りをしましょう。生産性が無いとか無駄だ、なんていうことはありません。それでいいのです。それが今一番大切で必要な時でしょう。
白いシャツ、白いタオルや小物など、白いものを着たり手元に置きましょう。シンプルでさっぱりとした清潔感のある状態を自分なりの可能な範囲で用意してみましょう。窓を開けて部屋の空気を入れ替え新しくしましょう。
やがてゆっくりとした時間の流れの中で、内側の奥の方から自分自身の再生された力が湧き出る時が訪れるでしょう。暗闇から夜が明けて空が白んでゆくように、変化はやがて訪れます。
人は常に元気で活動することが正しいというわけではありません。誤解しやすいですが、本来は人は誰でも、力を入れたり抜いたり、呼吸のように緊張と弛緩の両方があることが自然です。朝が来て夜が来るように、活動と休息があるように、私たち人間は元気だったり元気なかったりするのも自然なことです。悪いことが起きている、ということではありません。その状態が、再生の時で移行期なのだと知ってしまうことで、待つのも仕事の内だということに納得がいくかもしれません。
今ここにある夜を味わうことで、やがて新しい朝がやってくるでしょう。
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色彩×9分割の6の場所。例えば今回の物語は「黒色」×「人生の目的」のお話のひとつの風景です。
定年というものによってそれまでの習慣だった借り物の目的を失って今も未来も失ってしまったように感じていた人が、やがて自分のやりたかったことと出会い、新たに自分の人生の目的、充実して生きるってことを得て行動していく、そんな感情体験とそれに寄り添うような色彩のお話です。
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9分割(絵画療法)という理論を基盤に色彩のお話を制作しています。ひとつの色にも、3×3の9つのマスの位置によって多数の色彩感情が存在しています。「七色書房の小さな色彩の物語 七色処方 」
6-9 black story
写真と文 sanae mizuno
https://twitter.com/SanaeMizuno
※9分割(絵画療法)理論は、松村潔氏により研究開発されたものです。
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