去勢したいという男根主義(?)

ファルス中心主義という言葉がある。

辞書で見てみよう。

「デリダの用語。叡知と感性、精神と身体など、西欧形而上学の二分法が前者の後者に対する優位という優劣関係を内包し、これが男性・女性の優劣関係を正当化する男性優位の論理と不可分であることを形容する語。男根中心主義。ファロセントリスム。」

コトバンクの大辞林の記事より。

私はこの手の学問に関しては無知なので、この説明についての解説とかは一切できない。

ついでにいえば、ファルス中心主義 =男根中心主義が辞書の説明だが、男根主義という言葉もあって、これもイコールで繋がるのかは分からない。


そんな程度の知識しか持たない自分が「男根主義」というフレーズを使いたかったのは、もっと字面的な意味で書きたいことがあったからだ。

シスヘテ男性である私は「去勢したい」という思いを、ジェンダーについて学ぶ以前から時々抱いていた。

ということで、以下の文章からは性に関する話が出てきますので、これらが苦手な方はブラウザバックしていただきたい。









ジェンダーについて学ぶ以前、特に高校生の時には、(男性)性欲を抱きながら、それを一人で満たすほかなく、それでいて十分には満たされていないこと、そしてそうした状況がこれから先も続いていくであろうことを嘆いてそう考えていた。

自分がモテないことと、将来的にもモテないであろうことを認識していて、そんな状況でも沸き上がってしまう性欲が、邪魔で、汚かった。去勢さえすれば、と思っていた。

医学的に去勢したところで、性欲、性的欲求は明確に無くなるとは限らないことと、性器以外の身体の変化が起こることを望まなかったので、去勢する意味があまりないことはこの時には理解していた。

まして、男根を失いたいわけではなくて、邪魔に思われる性欲を失う方法があればそれでよかった。その一つの手段として、当時の私は去勢という手段が真っ先に思い付いていたのであった。


ジェンダーを学びはじめて以後も、そういったニュアンスで去勢したいと思うこともある。しかしそれだけではなく、去勢したいという思いには、別の意味が付けられるようになった。

男性性欲という、性欲と、有害な男性性(暴力性、支配性など)が結び付いたものの存在を自分の中に見いだしてからは、この男性性欲や有害な男性性の発現の一つの重要な因子として、男根をみなすようになったのである。

自分から男根が無くなることは、自らの汚点である男性性欲や有害な男性性の現れを、少しは消せるであろうということや、自らが有害な男性であることを否認することができる確信をもたらすことのように思われた。

日頃生きていて、男性性欲の存在を自覚するときが存在してしまう。この時問題に上がってくるのは、性欲ではなくて男性性欲であり、それを内包した男性である私が問題になる。これに対して私は、男根の除去という形で答えを求めてしまう。

いつか別の記事で深掘りしたいことがある。それは、私にとって、男根を用いた自慰は、自らが持つ男性性欲を見つめることであり、忌み嫌う自分の側面を自らで確認することでもあると同時に、それを認識していながら行為が行われる点で、肯定さえしてしまっているという許しがたい営みでもある、ということだ。


以上から分かる通り、現在の私は、自らの男性性欲や有害な男性性の存在を男根と強く結びつけており、それがゆえに男根の存在を否定し、ことによっては去勢したいと考えている。

高校生くらいの私が言う「去勢」は、男根を失うことを意味せず、性欲を失うことを意味していたが、現在の私が言う「去勢」は、明確に男根を目の敵にして、これを無くすことを意図している。

ここまで読んで疑問に思っていた人もいるかもしれないが、「去勢」という医学的な手術は、何も男根を除去することを意味せず、むしろ男性であれば睾丸、女性であれば卵巣を除去するなどによって生殖機能を失わせる行為である。

しかしながら、私は表から目に見えない睾丸に対してはさしたる興味を持たず、もっと見えやすい男根を目の敵にしていた。その結果、私の「去勢したい」という思いは、現在でも「男根を除去したい」という思いとほぼイコールで繋がっている。

「男根さえ無ければ」という思いは、男根に極端に意味を付与しすぎている。そういった自分の精神を、私は字句通りな「男根主義」という言葉を用いて、ここに反省として書き残したい。


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