「正しさ」をめぐって私
今回もシスヘテ男性である私と、性についての話が出てきます。最近はずっとその話ばかりですが、自分にとっての重要な課題なのでしょうがない。ということで、そういった「性」の話が苦手な方はブラウザバックを推奨します。
男性がフェミニズムについて学んだとき、陥りやすい状態が「自らがどれほど「優れた、正しい、望ましい」フェミニズムの体現者であるかを競争の手段にしてしまう」ということだ、と聞いたことがあった。
ここで批判されるのは、そうした競争のスタイルが既に優越を求める従来的な男性性であるということや、フェミニズムを耐えざる実践としてではなく、何か達成するものとして捉えていることだったと思う。
フェミニズムが学問として論争を繰り返しながら発展していくこともあるだろうし、しかし必ずしも統一されるべきとは言えないかもしれない。
ただ、論争を見ながら、「正しさ、望ましさ」の追求が、またしても私の身に起こっていたことが思い出された。
私は今、自らのセクシュアリティについて悩み続けている。シスヘテ男性である私は、これまでに私のなかで築かれてきたセクシュアリティが、従来の性規範や社会構造に誘導されるように作り上げられているのではないか、と悩んでいる。
私はシスヘテ男性としてどんな性を実践すべきなのか、ここ最近考え続けた。女性を性的対象として眼差すこと、性的対象として眼差されることへの無意識、性的「モノ」化すること、心地いい表象としてのシスヘテ男性向けポルノグラフィ、私が性的存在であることへの不快感...。
それは、性に対してどんな心持ちであれば、私は「正しい性」を楽しめるのか、という問いだった。
私の「性」をジャッジするのは私だから、結局のところ私のジャッジが私から不偏不党であることは難しい。そういう意味での悩みもあったけど、ここに来て「そもそも「正しい性」を求めるということ」そのものへの疑問が出始めた。「正しい性」の在り方を求めれば、私は「正しいフェミニズムの体現者となれるのではないか」と考えていたのではないか。
「正しいフェミニズム」や「正しいフェミニスト」がいるのかは、私には分からない。「間違ったフェミニズム」や「間違ったフェミニスト」という言葉もどうなのだろうか。「正しい」と言いきれるようなものは、少なくとも実践という考え方を学び始めた私にとっては何となく合わないような気がする。
とすれば、私が「フェミニズム的に正しい、ないし間違っていない性の在り方」を確立させようとしていることは、一体なんだったのか。
先日の記事に、コメントをしてくださった方がいた。その方は私に、フェミニストポルノの存在を教えてくれた。まだ「正しい性」の在り方に結論を出せずにいた私は、結局のところ従来のようなポルノグラフィ消費に陥ってしまうのではないか、なにも変化しないのではないかと思って、ひとまず考えることを優先したい、とコメントを返した。
それでも、もはや「正しい性」なんてものの存在に疑問を持たざるを得なくなった私にとっては、とにかく実践しかなくなってしまった。だから、今日はフェミニストポルノを実際に見てみようと思う。それをどう見るのか、ということを実際にやってみなければ、何も進まないことを確信したからだ。
教えてくださったコメントの方は本当にありがとうございます。私自身、まだシスヘテ男性である私の、性の新たな構築を諦めたわけではありません。考えるだけでは結論が出せないことを感じたので、新たな手段に出るということです。
また明日、ネットでジェンダー学などの悩みを相談する機会があるので、そこでもそんなことを話してみようと思います。