今日の新しい気付き2つ
私は定期的に、ジェンダーやクィアなどについて詳しいとある方と相談をする機会がある。その方と話すと、考えがまとまることはもちろん、新しいことに気付かされることが度々ある。今日もしてきたので、そんな気付きの話を。
1つ目。
私は過去に「自分はロマンチストを越えたファンタジストで、リアリストには到底なれない」といった趣旨の、非常に病んだ記事を書いた。
病んだものがこちらになります。
その話を例の方に話したところ、その方は自分をリアリストと称してこういった。
「私は冷めてるから。諦めているからリアリストにしかなれないよね。」
それを聞いて、「ということは、自分は本当は熱を持っていて、期待している所があるのか」と気付かされた。
私はファンタジストゆえ、この現実のカオスさに耐えきれずに、非常に高い割合で病んでいるわけだけども、
一方で、この世界がもっと綺麗であることを期待をしていて、その期待が裏切られることによって病むということは、少なくとも綺麗な世界へのエネルギーは持ち続けている、とも言えるわけだ。
そのエネルギー、何かに使えないだろうか。
2つ目。
私は自己否定をする。ここで否定される自己は、基本的には「今の自分」である。私のこじれた自己肯定感の特徴は、生まれた状態のタブラ・ラサな「ありのままの自分」のことは大好きだが、「今の自分」は汚くて大嫌いだ。
もっとも、「ありのままの自分」が意味するところのものは、「今の自分」が持つ様々な悪い面を非生得的なものとみなして、これを排除したものだから、こういう好き嫌いが生じるのは当然なんだけども。
そして、ジェンダーを学ぶようになってから、「今の自分」へのヘイトはどんどん高くなっている。
生きづらさを感じる人に、「自分を肯定しよう」みたいな言説を送ることはよくあると思う。ジェンダーの文脈では、女性とかセクシュアルマイノリティの方で、その性質であることをシスヘテ男性至上主義社会で否定されてきた苦しみを持つ方に対して言われることも少なくはないと思う。
でもこういう言葉は、何の気なしにこの世界のルールを受け入れた結果、有害な男性性を十分なほどにインストールした自分にとっては響かない。自分の有害な性質は否定(もしくは批判)されるべきだと思うし、自分は変わらねばならないと思う。
もっとも、「自分を肯定する」という言葉の意味は、様々にあると思う。
そういう点で、自己否定が止まらないことを言った自分に対して、あの方が言ったのが
「そういう自分の良からぬ内面に対して自覚的になってそれを考えていること、そのものが自己肯定だよ。」
という言葉。最初は私はピンとこなかったが、ひっくり返すと分かりやすかった。
良からぬ自分の内面を見て見ぬふりして蓋をすることは、自己否定。
現状を見つめること、そのことは自分存在への肯定、ということと私は捉えた。
そのあと付け足してもくれた。「決してその肯定は楽じゃないけどね。苦しいとは思うよ。」
はい。苦しいです。
noteを始めてからの私は、何度も自分の嫌いなところや弱いところ、ダメなところを書いてきた。それは、自分の中に溜まり続けたヘドロを、日陰から日向へ晒す行為であった。
そういう意味では、案外このnoteは、自己肯定の空間だったのかもしれない。苦しかったけど。