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「脱コルセット」、その時私は

男性だから、許されてきたことがあると思う。

その一つが、身だしなみ。私はかなり身だしなみに関してレベルは低いと思うんだけども、それについて圧力を感じたことはあまりない。

男性と身だしなみについて連関するときには、かなりの確率で「モテ」の文脈が登場するような気がする。「モテ」に背いて、「モテ」ようとしない私は身だしなみに気を使うことが少なかった。自分で自分を「毛繕い」することは好きじゃなかった。


「脱コルセット」という潮流が韓国のフェミニズムから興った。社会が求める女性像に適応するのではなく、それへの積極的な抵抗でもって、自分の身体に対する決定権を自分の手に取り戻す、そんな運動だと私は理解している。

本義ではないのかもしれないけど、例えばメイクをする理由が、外部からの圧力によらない、自分の「自由意志」によってのみ依るなら、それは圧力の象徴としての「コルセット」を外していると言えるのかもしれない。

「コルセット」を外した女性は、自分の判断でメイクをしたりしなかったり、その他おしゃれをしたりしなかったりできる。「化粧をするのがマナーだ」なんていう言葉は関係ない。


女性に要求されてきた「身だしなみ」の水準はかなり高かったのだと思う。「ここまでがマナーだ」という下限がかなり高かったのだと思う。

男性である私に要求されてきた「身だしなみ」の水準は、正直低かったと思う。髪を切りに行くのが、ヒゲを剃るのが、洋服を考えるのがめんどくさいから、そこにコストをかけない、ということが、おそらく女性よりも許されてきた。

女性が「自らの判断のみによって」身だしなみをするときにどこまで「身だしなみ」の程度が変わるのかは分からないが、私がもし自分の判断のみによって「身だしなみ」をするなら、更に状況は悪化しうる。それは、許されることなのか。

私は本音を言えば、「身だしなみ」は楽であればあるほどいいと思っている。でももしそれで、人を不快にしてしまうのなら、それは流石に避けられるべきだと思う。でも、ならばどこまで「身だしなみ」することを目指すべきなんだろう。

「脱コルセット」の理念は、単純にはものすごく賛成なのに、いざ私がその理念に向き合ったときには、どうしたらいいか分からなくなる。サボってもいいのか、頑張る必要はどこまであるのか。


(シスヘテ)男性である私にとっては、「非対称性」というフレーズが重要だと思う。簡単にはひっくり返して考えられない。女性が「脱コルセット」するからと言って、じゃあ男性も、とはいかない。

男性である私は、「脱コルセット」が進んでいく傍らで、それを歓迎しつつも、自分はどう振る舞っていくのかを考えねばならない。

これまで考えてこなかった分だけ、必要な時間ではある。あまり頭の良くない私では自分なりの考え方を決められるまでにかなりの時間を擁すると思うけど、じっくりじっくりやっていこう。


追記:記事を公開した直後にたまたま見た、うちゅうリブというグループの記事が、思いの外今回の記事と関係がありそうなので、是非紹介させていただきたいです。うちゅうリブさんは「メンズリブ的なアプローチで、さまざまな話題を語り合う」と説明されているグループで、男性が男性のことを考えるという方法から、私が非常に強い興味を持ってきた、参加したいとも思ってきた団体です(まだ勇気が出なくて参加できてませんが)。

今年の4月にオンラインで開催された回は「セルフネグレクト」をテーマにしており、私にも重要課題になりつつあるところでした。今日の記事にも通じるところがあるかもしれません。


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