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『BOYS』を読む(3)

この記事は一昨日の記事の続きであり、レイチェル・ギーザの『BOYS』という本の第二章について述べるものです。

一昨日の記事がこちら。

この第二章のタイトルは「本当に「生まれつき?」ジェンダーと性別の科学を考える」であり、「はじめに」の部分によると、性差、ジェンダー差についての科学と、標準に当てはまらない人たちに向けられる不安感についての章である。


以下、あらすじ。

ジェンダーや人種の、従来の境界線が破られつつあることは、人々からは不安定なものにも思われる。妊娠においては、エコー検査で分かった性別を派手に発表するパーティーがなされることがある。

生まれる前から、親は子のジェンダーを意識する。生まれてからは、衣服やおもちゃなどによって、更に強く意識される。子どもに与えられるもののジェンダー的要素(色やスポーツ/お花のようなデザインなど)、かなりの部分で社会的に構築されたものである。しかし、ジェンダーが固定されていないことは既存のジェンダー観への揺り戻しを生み、また固定化されることとなる。固定化されれば、それを踏み越すことはリスクが高く、より固定化に繋がる。

ジェンダーに関しては、脳科学の影響も大きい。生得的な差を大きく捉えるのか、それとも大した差ではないと見なすのかは、分かれるところである。しかし、前者の立場に立った極端な意見が人々の間に流布することも多い。後者は、遺伝子と環境の相互作用の影響を重視する。

ジェンダーと科学の問題が複雑になるのは、従来の性に当てはまらない子供についてである。いわゆるトランスジェンダーを始めとした「非定型的」な性を持つ子供は、適切なケアが得られないと、様々な問題に関わりやすい。

それは、現状の性の常識を揺るがされることへの恐怖があるのではないか。「定型的」な性を持つ人々は、ジェンダーアイデンティティの意味や根拠を考えてこなかった。それはトランスジェンダーの人がジェンダーアイデンティティについて考えさせられるのとは対極である。

また、同じトランスジェンダーの子供でも、MtFとFtMでは少し扱いが変わるという。それはより医学的な意味での違い(MtFは男性器の存在が早くから問題になるが、FtMは月経や胸の成長が始まる段階ほどまで放っておかれることが多いらしい)もあるが、FtMは好ましいと思われる男性性を発現することが肯定されやすい一方で、MtFは男性性を中々発現しないことで否定されやすいのだという。ここにも、典型的な「男性性」というイメージが良いものとしてみなされ、影響を与えている。

また、ノンバイナリーの場合は、特定のジェンダーらしさに頼らないケアが必要となる。

それはトランスジェンダーにも利用されうる。過度に「男性らしさ」や「女性らしさ」を演じることで「自分らしさ」と一致しなくなることがあるからだ。


以下、感想。

今の「常識的」なジェンダー観は、おそらく生まれつきの性差を重視する考え方と調和的である。これにどう対抗するかは、大きな課題になってきた。この本では男性と女性の脳の違いを微々たるものとして扱う考え方が紹介されている。今後も、性差については科学で取り扱われるだろうが、その科学界自体が男性優位に見えることは気になる点に見える。、

後半では、「男性性」がここにも影響を与えていたのだな、と気づかされる。私は、よりジェンダーについて詳しい方々から、セクシュアルマイノリティのコミュニティにさえ男性性中心の考えが見られることがあることを知らされてきた。従来のジェンダー観に対抗せざるをえないがゆえに、男性性の影響もここにたち現れる。やはり、男性性について考えられる必要性が見える。

ジェンダーが流動するがゆえに、固執せねばならない、ということがこの章の主題と言えるかもしれない。「男性性」への懐疑がこの本を通してのテーマであり、この章では「男性性」が懐疑されていない現状で何が起こっているのかが示されていた。

第三章から第六章以降は、このようなジェンダー観と男性性観のなかで、個別的な場で何が起こっているかが示される。この章はそのブリッジになっているように思われた。

(続く)

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