【プリズンライターズ】獄中小説・獄楽/休日24時 Vol.9
獄中小説・獄楽/そしてまた冬 Vol.8 こちらから
俺は、拘置所を含めた獄中生活30年で、およそ、3千5百冊の小説を読んできた。
3日に1冊のペースだから、かなり遅い方だと思う。
捕(パク)られた当時は、北方謙三や大沢在昌を始め、逢坂剛、黒川博行、そして、船戸与一などを読み漁った。
その数年後には、馳星周と新堂冬樹、そして、垣根涼介などが続々とデビューし、俺のお気に入り作家となった。
俺が好む小説は、今だに変わらず、これらの作家が新刊を発売するのが、待ち遠しくて仕方ない。
「ジンさんて、ノワール系の小説が好きですよねぇ」 ユウジは、俺の好みが分かっているが、
「それだけじゃねぇぞ。高杉良の書く経済小説も好きだし、唯川恵の恋愛小説も好きだしな。ノワールは、その好きな中でも、とくに、がつくってだけの話だな」
「結局、いちばん好きなんでしょ、ノワールが」
「だな。で、そのノワールがどうかしたのか?」
「いや、ジンさんは、自分でノワールが書きたいのかな、と思って」
俺は、5秒思案してから、
「好きなジャンルではあるけどよぉ、俺に書けるかって言ったら、ムズイだろうなぁ、、、。その意味って言ったらな、金原ひとみさんが書くような小説が書きてぇかな」
キツネにつままれたような顔、というのは、きっと今のこいつみたいな顔のことを言うのだろう。極悪ヅラは、見事なまでに消えている。
「どういうことっすか?」
「お前、金原ひとみさんの小説は読んだことあるか?」
「ないっすね。てか、ジンさんが、その金原って人のことを〈さん〉づけしてるとこがキモいっす」
俺は、怒りを抑制したつもりでいたが、頬がピクピク引き攣っているのが自分で分かった。
「お前なぁ、10年前の俺なら、ソッコーでパンチを食らわしてるとこだぞ」
「えへへ。ジンさんも大人になったってことっすね」
俺は笑顔をつくって受け流してやったが、今晩、こいつが寝てるとき、絶対に顔の前で臭い屁を一発かましてやる。
「今度、機会があったら、その人の本を読んでみますね。ジンさんが言うぐらいだから、絶対おもしろいんでしょうね」
「まあな。俺はこの娘が10代のときに賞を取った〈蛇にピアス〉っていうやつからずっと読み続けてんだけどな、何かよぉ、絶対にそんなことあり得ないって分かってんのに、すべてこの娘が経験してきた〈自叙伝〉にしか思えなくってな」
「へぇ、そんなすごいんだ」
かなり心が引かれている様子だ。それまで首だけ捻ってこっちを向いていたユウジが、尻を回転させて前のめりになった。
「花村萬月の、かなり昔のを教えたことあっただろ」
「はい、あれは面白かったっす」
「だろ。シャブを扱う件(くだり)なんて、絶対にイジったことがあるやつじゃねぇと書けねぇだろ、っていうぐらいリアルだっただろ?」
「ですね」
「へぇ、そりゃ読んでみたいなぁ」
マサが、眼をキラキラさせて話に割り込んできた。シャブと聴くと、すぐにこれだ。
「全部ユウジに教えてあっから、知りたいならあとで訊いてみな」
俺は、素っ気なく告げると、話を続けた。
「金原さんの書く小説はな、内面的な部分ていうのかなぁ、、、そういうのがな、めっちゃリアルに感じられるんだよ」
「ジンさんはそういうリアリティーのある小説を書きたいと、そういうことなんですか?」
「まぁな」
「逢えるといいっすね」
「はぁ!?」
「いや、いつか、金原さんと逢って話が訊けたら、ユウジさんも嬉しいんじゃないかなぁと思って」
「そりゃ嬉しいけどよぉ、何か、話が急に飛んでねぇか?」
「そう、ですか?」
「なぁ、マサ」
「めっちゃ飛躍してますね」
「そうだ、ジンさん、ホラーを書いて下さいよ」ユウジが膝を打つ。
「だからよぉ、何で話がそんなに飛ぶんだよ。まさかお前、フラッシュバックでもしてんのか?」
俺は、右手の人差し指を立て、ユウジの顔の前で左右に振った。5秒後、
「どんだけぇーって、何すかそれ?」
「バカ野郎っ!こっちはな、てめぇの脳味噌の心配をしてやってんだよ。間抜けヅラして目ん玉をキョロキョロさせやがって。お前がトンボならな。秒で捕まえて、とっくにムシカゴの中に入ってんぞ」
自分がトンボになった姿を想像したのか、ユウジが肩を落とした。
ユウジの姿に頬を緩めたマサだったが、
「ジンさんは意外とロマンチストですから、絶対に恋愛小説を書くべきですって」と譲らない。
こいつは顔に似合わず、俺が薦めた唯川恵の恋愛小説にドハマリしている。
「いや、ジンちゃんはやっぱり任侠ものがお似合いだって」
今度は中田さんだ。入歯を飛ばしそうな勢いでそう主張する。
「そうだっ!!」
中田さんが、膝を打った。小机から身を乗り出す。
笑顔を抑えきれずに入歯を覗かせると、意味深な眼つきで一同の顔を見回した。そして、
「今日の昼飯ってな、確か、コーヒーが出るよなぁ」
と、ユウジに確認した。
出るけど、、、それがどうかした? と言いたげに小首を傾げたのはユウジだけじゃない。俺もマサも一緒だ。
顔を紅潮させた中田さんが俺に視線を向けると、
「だったらな、根本の分はともかくとして、全部ジンちゃんにいってもらおうじゃないか」とぎこちなく右眼を瞑った。
誰がどう見ても眼の中にゴミが入ったとしか思えないが、実は、それが中田さんのウインクだということを最近俺は気づいた。
それはともかくとして、コーヒー4杯はさすがに多い。
そんな俺の気持ちを汲んでくれるのがユウジであってほしい、と常日ごろから切に願っているのだが、
「なるほど、それはいいアイディアじゃん」とこのバカはすぐに裏切る。
俺は、辟易しているのが表に出ないように微笑でそれを包み込んだのだが、
「ですね、昨日眠れなかったとはいえ、4杯もいけばさすがに眠気もぶっ飛ぶっしょ」とマサが般若ヅラを崩して言った。
ユウジの方が抜きん出ているから目立たないだけで、こいつもやっぱりバカだった。
工場の中で、こいつら2人のことを〈風神・雷神〉になぞらえて格好よく言う連中は確かにいる。
しかし、俺たち3人のことを面白くないと思っている〈反目〉のやつらはそうじゃない。
〈水戸黄門〉になぞらえて、俺のことを〈黄門さま〉、ユウジとマサを〈スケさんカクさん〉と陰に隠れてそう揶揄して呼んでいることを俺は噂で聴いて知っている。
2人の顔をまじまじと交互に見詰めた俺は、これ見よがしに溜め息をついてやろうと思い、大きく息を吸い込んだ。
が、それを吐き出すときには、笑うためのものになっていた。
俺がこれまで書いてきた〈嶽楽シリーズ〉は、ほぼすべてコーヒーを飲んだあとに構想を練り上げた。
いや、練ったというより、神が舞い降りてきた、と言っても過言ではない。
実際に俺は、これまでプロットを書いたためしがなく、今書いているこの〈休日24時〉に関しても、どこが終点なのか自分でもまったく想像がつかない有様だ。
ユウジとマサが中田さんの提案に同調したのは、そうした俺の〈特異体質〉を知っているからに他ならない。
ここで出されるコーヒーは、もちろんインスタントのもので、マグカップ1杯250mlぐらいの量がある。
いくら娑婆でコーヒー好きだったとはいえ、湯気も香りも立たぬこのインスタントでは、せいぜい2杯も飲めば充分だ。
甘さが控えめでミルクなしのビターなコーヒー。
と言えば聴こえはいいが、俺から言わせれば、経費削減のためのケチなこれより、喉に絡みつくぐらいたっぷり砂糖の入ったやつの方がまだ4杯飲める気がする。ま、それは、普段から俺たちが甘いものに飢えているからこそ思うことであり、実際にそれを飲むとなると、途中で胸焼けがして、気分を悪くするに違いない。
それはさておき、根本以外の3人が、俺にコーヒーをくれるのには別の意味がある。
「根本、お前さぁ、未決でコーヒーは飲んでたか?」
俺は、根本に水を向けた。未決というのは、一般には拘置所に拘禁されている被疑者や被告人のことを差すのだが、俺たちの間では、その拘置所で生活していた期間のことをそう呼んでいる。
「ほうですねぇ、毎日2杯は飲んどりました」
「そうか、だったらまだ大丈夫だな」 根本が、首を捻った。
「ここではよぉ、月に2回ぐらいしかコーヒーが出ないわけよ。するとな、夜、ぜんぜん眠れなくなるんだこれが」
「はあ」と根本が気の抜けた返事をよこした。
「お前、今、ジンさんの言ったことを、何をバカなこと言ってんだって、そう思ってんだろう」と、ユウジが口を挟んだ。
図星なのか、慌てた様子で掌を顔の前でひらひらさせた根本は、ゴクリ、と喉を鳴らして生唾(なまつば)飲み込んだ。そして、
「いえ、そがなこと、ちィとも思っとりゃせんですよ」
そう言うと、今度は顔が蒼白く変化した。こいつは、意外と分かりやすいタイプかもしれない。
「ま、あと1、2年もすりゃあお前も分かるよ」
俺は、根本にそう言って含み笑いを向けた。そう、コーヒーを飲んだ晩は、皆、押しなべて眠れなくなるのだ。
それが辛くて飲まない、という懲役は多い。共同室なら4、5人のうち1人ぐらいはコーヒー好きがいる。
なので、飲まないやつらは皆、その好きなやつに飲ませてやるのだ。
余談になるが、コーヒー好きの中には、信じられないことに転室の2ヶ月前あたりから、
「あの人はコーヒーを飲まないからなぁ」と計算して次の居室メンバーをピックアップする強者まで存在するのだ。
ユウジもマサも中田さんも、決してコーヒーを飲まないわけではない。
「娑婆ではコーヒーは好きだった」という俺の過去形の言葉を無視し、「なら俺のを飲んで下さい」とユウジが言ったものだから、「そじゃあ俺のもどうぞ」「なら、わしのも」と2人が追随し、今年の正月、インフルエンザが完治してから、ちょいちょい俺にコーヒーが回されるようになってしまった。 というわけで俺は、人がいいから、仲間たちの厚意を無下に断わるわけにもいかないので、無理して飲んでいるわけだ。
そりゃそうだろ。4杯分で1リットルだぞ。こう言っちゃ悪いけど、そんなもん、ただの罰ゲームじゃねぇか。
午前10時。15分間の室内体操の時間だ。休日には、午前と午後にその時間が設けられている。
ちなみに午後は、2時30分からとなっている。
「おい根本、そっちの窓を全開にしてくれっか」
俺は、そう声を掛け、ミントグリーンの上着を脱いだ。
脱いだそれをきちんと畳み、布団の上、パジャマの横に並べて置くと、次に、ズボンに1ヶ所だけついているポケット、右の臀部(でんぶ)のそれに、脱いだ靴下を適当に丸めて捩じ込んだ。
窓の外、鉄格子の向こう側は、薄い雲が全体に広がり、白っぽい空をつくりだしている。
この季節によく眼にする巻層雲(けんそううん)だ。
「ユウジ、マサ、やるぞっ!」 筋トレ開始の号令を掛けると、
「よっしゃ、運動日和ですしねっ!」
ユウジが握り拳をつくり、自分の胸をドンとひとつ叩いた。
そしてマサが、
「じゃ、いきまっせぇ、、、イチ、ニイ、サン」
俺たちは、腕立て伏せをスタートさせた。
最初の100までをマサが数え、次の200まではユウジ、そして最後の300までを俺が数える。
ノンストップで300回だ。これを15分間、ピッタリのペースで行う。
マサは毎回180回前後。調子のいいときでも200回でダウンする。
「ほら、ハァ、マサ、ハァ、あと、ハァ、50、ハァ、49、ハァ、48、ハァ」と俺が気合いを入れてやる。
が、多分この感じだと、200回には届くまい。
さらにユウジが鼓舞する。
「おい、ハァ、マサ、ハァ、200まで、ハァ、やり切りゃ、ハァ、昼の、ハァ、コロッケを、ハァ、お前に、ハァ、やるから、ハァ、もうちょい、ハァ、頑張れ、ハァ、今、ハァ、180、ハァ、181、ハァ、おりゃ、ハァ、うっしゃ、ハァ、184、ハァ」
それにマサが応えようとするのだが、
「マジ、ハァ、でも、ハァ、もお、ハァ、ヤバイ、ハァ、おりゃ、ハァ、くそっ、ハァ、うぅぅぅ、く、く、くそっ、ダメだぁ〜〜」
母音をだらしなく伸ばすと、畳の上に突っ伏した。そして、
「あと、6回で、コロッケ、だったのに、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
息も切れ切れに顔を歪め、悔しさを滲ませた。
ユウジはというと、
「ヤバい、ハァ、くそっ、ハァ、おりゃ、ハァ、もういっちょ、ハァ、おりゃぁぁぁっ、ハァ、うううりゃあ〜〜」沈没。
マサより60回ほど多くこなしたものの、結局、300回には届かなかった。ま、こいつはいつもこんなもんだ。
そんなユウジを尻目に300回やり切った俺は、息を弾ませながら洗面台へと向い、その場でシャツを脱いだ。
「それにしても、いつも、言ってますけど、どう見ても、56歳の、躰じゃ、ないっすよね、ジンさんは」
仰向けになって、厚みのある胸を上下させながらそう口にしたユウジの顔は、7対3の割合で、憧れと呆れのそれだった。
「そうだなぁ、最低でも週に1回はこうやって続けてればな、お前だって間違いなく50歳を過ぎてもこうなってるよ」
俺は、ボディービルダーさながらに笑みを浮かべると、〈マッスルポーズ〉をつくってみせた。
月に2回ぐらいしか飲めないコーヒーを4杯も飲む事に?神はジンさんに舞い降りてくる? ・・獄中小説・獄楽/休日24時 Vol.10につづく
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