【プリズンライターズ】少年無期受刑者が考察する、受刑者の在り方
私が今回の事件を起こし、無期刑に服すること十四年が経った。
刑務所内では三十五年が最低でも無期受刑者が務めねばならない年数だと言われている。
この数字だけを見れば私は今が大体半分程だ。現実はそんなに甘くないのが真実だが。
この十四年間、私が受刑生活で感じた無期囚の人々の考え方は当然ながら種々様々。
一部の開き直った人を別にすれば、この種々様々な人々たちでさえもが共通する一念がある。それは何か……『出たい』という気持ちだ。
確かに誰もが出たいだろう。この私も服役したばかりの頃は二十歳と若く、「いつ出れるだろうか」と考えてばかりだった。
しかし、多くの本を読み、自己省察を繰り返している内に、それを考えることが全く無くなった。
それは何故か。『出たい』という気持ちは自分勝手な『欲』であることに気づいたからだ。
皆さんは「ショーシャンクの空に」という映画を御存じだろうか。
その中にモーガン・フリーマンが演じる囚人が出て来て、何度も仮釈放の審査を受ける。
その面接で面接官の質問に対し、彼はいつも同じように答える。「反省しています。もう悪いことは二度としません」というように。
しかし、仮釈放は許されず、何度も不可とされるが、ある日、同じようには答えず、彼は別のことを言う。
すると仮釈放が許される。さて、彼は何と答えたか……残念ながら私もうろ覚えで確かなことは書けないが、彼はそれまでとは打って変わった消極的なことを言った気がする。とても良い映画なので、是非見て頂きたい。
原作はスティーヴン・キングの「ゴールデンボーイ」(新潮文庫)の中に入っている短編小説らしい。
私はまだ未読だが、興味のある方は読まれてみるのも良いかもしれない。
さて、このように自らが「反省した」だの、「悪いことは二度としない」だのと軽々に言っている内は全く以て駄目なのである。
そのようなことは当たり前で、本当に自身の罪と向き合った時、欲や甘い考えは捨てていなければならない。
しかし、遺憾ながら無期囚の殆どの者が、自らが出られるかどうかばかり考えている。正直、私は情けないと思う。
無期である以上、先が見えぬことは当たり前で、それだけの事をして今ここに居るのだ。
「希望がないからやる気にならない」は論外だ。「心が折られる無期の実情に前向きになれない」なら、後ろを向いたままで後退れ。
結果的には前へ進んだこととなる。
決起せよ!全国の無期の方々よ。泥水を啜り、塵芥を喰らい、這ってでも前へと進んでくれ。
希望が無くとも、光が見えぬとも、前へ、それでも前へと……側で共に歩めずとも、私はここに居る。
同じ苦しみを抱え、それでも歩み続けている。先を行く方々には、泣き言の無い格好を付けた背中を見せて欲しい。
それは必ず、誰かの心に残るはずだ。
何かが与えられるから頑張る者は、心が強く育つことは無い。
頑張りは自らが認めるものではなく、周りの者が認めてくれるものであり、そもそも頑張ることさえ当たり前。
その結果として与えられるものがあるとするなら、それに対しては感謝するのみ。
決して自らの頑張りの見返りを求めてはならない。だからこそ、「出る為に頑張る」ではなく、「頑張ったら出られた」であるべきだ。
被害者のことを思えば、『出たい』という欲を捨て、無心に励んだ先に与えられるものが出所であるはず。
指針にするのは良い。だが、目的にしてはいけない。
世迷言や泣き言は死に際に言えば十分に事足りる。そこまでは歯を食いしばり、懸命に歩まなければならない。
「忍耐は練達を生み、練達は希望を生み出す。希望は失望に終わらない」はずだ。
仮令(たとえ)自らがでられなかったとしても、直向(ひたむ)きな姿は誰かの心に希望の灯を灯し、その人を新たに生かすだろう。
それだけで十分ではないか。
これからも私は受刑者の在り方、詰まりは自らの在り方を追求していきたい。
しかし、まだまだ十五年目の三十五歳は青二才。多くの壁や葛藤がある。若さ故の血気が先行してしまい、泰然自若とはなかなかいかないのだ。
それでも私は苦しみたい。私が奪った命の分も苦しみつつ、新たな人で在りたいと思う。
これが正しい在り方だと断言は出来ないが、私はこれからも迷いつつ、悩みつつ、償いというものを考えていきたい。
これが今の私の在り方である。
2023年11月5日
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