アフリカ 第33号
『アフリカ』の告知が遅くなった。
2月22日に33号が発売されて、私の文も無事載せてもらえることになりました。この場で改めて関わってくださった方々に、感謝の気持ちを伝えます。
本にして形にするなんてこと、なかなか一人でできることではないものね。
発売日に下窪さんから冊子が数冊届いて、すぐに友人のティーちゃんに送った。そうしたら、先日、ティーちゃんから感想のお手紙が送られてきて、とても嬉しかった。
彼女とは直接お会いしたことはないけれど、私とは全く違った性格のようだと分かって面白い。私たちは、どうしてこうやって繋がり続けているのだろう、と不思議に思った。
『アフリカ』の感想と一緒に、ステンドグラス風の向日葵のしおりが同封されていた。
私の幼少期のイメージとぴったりな満開の向日葵だ。太陽に向かって伸びていく。
いくら個人的なエッセイを書く意味は自己満足だからと言い聞かせても、読者の反応は気になるものだ。
他にもお世話になっている知り合いが、本を読んだよ、と嬉しそうにこっそり話しかけてきてくれて、心から嬉しかった。『アフリカ』に載せる必要があるのかないのか、不安だったから。声を大きくして宣伝するわけでもないが、あなたの文章は光っていたわよ、と伝えてくれて、お世辞でも有り難かった。私は、何かしらの作品で影響を与える人ではなく、影響を受ける側の人でずっといたい、と思った。素直に受け取る人の、豊かな表情が、輝いているから。
今回の私の作品は、最後に載せてもらった。読んでくださった方がどんな印象を持ったのかは気になるし、または、同じように読者が幼年時代を振り返るような機会になったら嬉しいなと想う。
今回の冊子は全体的にセンシティブで暗い内容かも。という話をアフリカのメンバーに話したが、私も、実はもっと暗い話(思い出)を書きたかったのだが、忍耐がいるので書けなかった。唯一の確実な読者でもあるティーちゃんと出会ったのも、真っ暗な中手探りで足掻いているような、そんな時だったから。今回、私が描いたどろんちゃんのイラストも載せてもらっているが、絵を描き続けていたのも、そんな時期。
でも、根が活発でさっぱりしているところは変わらず、他者には見透かされているようで、私は、性格上の忍耐の無さからくる、楽観性と明るさを原動力にして文を書くのが正解なのかもしれない、と今の時点では思う。
(自然体の自分を受け入れるって、諦めのニュアンスに近い。受け入れてしまえば楽なんだ。その気楽さがないと、物事を続けられない。でも、受け入れるのにはある程度の知性は必要だから、どんどん学びたいと思う。)
『アフリカ』は自由な冊子だと思う。けど、こだわりがないようでいて、ちゃんとまとまっている。形が重要なんじゃない、こだわりたいのは、表面的なところではない、という意識があるように思える。下窪さんが、出来る限り自由な場を作ってくれて有難いなと思う。そうだ、自由であり続けることに、こだわりたいのかもしれない。最初の反応はやわらかいけれど、今回は前号と比べて、なかなか手厳しいな、と思うところもあった。私はその反応に戸惑いながらも、直せるところはたくさん直したんです。(それが読者に伝わっているかどうかは知らない。)
今回の『アフリカ』では、「あなたはなぜ書くのか?」というテーマで集った文が載っている。私は明確にそこに参加して文を書いた訳ではないけど、根本的な場所に還って様々な人の想いを読むことができて大変興味深かった。そして、私は自身の幼年期のころから遡って、周りの友人や家族のことについて、今は亡き人のことについても考えを巡らせた。その関係性の中に、もしかしたら本質的なルーツがあるのかも、と思ったからだ。
私が文を書くのは、「人の心を深く知りたい、潜ってみたい」と想う気持ちに繋がっているような気がする。それは決して、軽く扱えるものではない、ということも承知している。そのような緊張感は、いつも持ちながら、今日も本を開いてみる。
手軽に持ち歩けて、誰もが気楽に読めるような冊子だ。でも、中身は見かけによらず、もっともっと繊細で複雑かもしれない。でも、希望の光は差している。ステンドグラスを透かして漏れ出る光が、豊かな彩りに変わって読者を照らしてくれる。手に取った方が、じっくり読み進めたり、読み返したりして、何かしらの手応えを感じてもらえる冊子であって、『アフリカ』に集った仲間が放つ光が織りなす色彩を愉しんでもらえたらな、と想う。
(『アフリカ』の宣伝になってるかなあ?)