醒めるために夢をみる
8月に入り、コロナが再び猛威を奮いはじめ、またもや予定が崩れ始める。それに伴ってだんだんと身体の調子も下がり始めた。
私なりの現実逃避と遊びのバランスを現実世界で成り立たせていたのが、一日中家に引き篭もる生活が増え始め、その逃げ場がまた睡眠時の夢に向かっていく。
夢、夢、夢。現実での日々が忙しないわけでもなく、長く眠って夢をみていられるということはある意味で幸せなことかもしれないが、虫の良すぎる夢を何度もみては、泡が弾けるように、あっけなく目が覚めることを繰り返していると、流石に虚無感に苛まれる。
夢は内心見ないようにしていた理想や願望を、意図も簡単に炙り出し、鮮やかに脚色をして私の意識を引こうとする。けれど夢から覚めた時の孤独感こそ本当のことだろう。
泰然自若。動けない時は動かないのがよろしい。それが一番難しい。動かないことについて努力することが、最も忍耐を要することだと私は思う。
頼まれていたデータ入力を推し進めるべく、ガタガタと出来る限りの速さでキーボードを打つ。このような事務作業は、あまり身体の調子が良くない方が感情がおさまっている分かえって集中しやすい。
中国茶を入れ、時々それをすすりながら、今月までに終えられるだろうと考えながら無心で手先が動くのを眺める。
片膝を抱え、猫背になりながらの作業を幾日か続けた後、気分転換にラジオをつけた。流れてくる会話の内容に思わず笑った途端、背中に痛みが走る。
明らかに私の体たらくな姿勢の悪さが招いた痛みだった。しばらく様子をみるが、だんだんと痛みが増してくるような気がしてくるうえに、右手が動かしにくい。
げ!まずい!まさか、家でできることでさえの行動もストップされるのか?とゾッとするような気持ちになる。
病気や怪我をすると途端に弱気になるのは何故だろう。何がそんなに哀しいのか。
当たり前のようにみなと足並み揃えて歩き馴染んでいたことにびっくりする。多くの人々の賑やかな声は私の中でずっと木霊していて、その声は今の自分には全く響かなくなっていることを確認してから、もう一度再出発するために身支度を整える。
-----ひとりの時間を存分に過ごしたい。私はひとりになれる場所を求めて手当たり次第に本を読む。この人はきっと「ひとり」で懸命に歩んできただろうなと感じる文に出逢えた時の安心感。私は私の足を使って歩き、地べたの冷たさを何度も確認する。またもう一度何もかも真っ新にする必要がある。思い込みから醒めるために。
遠くの空に浮かぶ入道雲、蝉の鳴き声、確かに私が幼い頃に親しんできた夏の一体感覚が、徐々に失われてきているような気がしている。じっとりと纏わりつくような暑さだけを残した夏のようなものがあっという間に過ぎ去り、季節が移ろいゆくことが、見ず知らずの他人の会話に耳を傾けるぐらいに遠くのことのように思える。
ピラピラの安っぽいワンピースを着て、化粧をしていない顔に、眼鏡とマスクをつけた後、近場の整形外科に行き、背中のレントゲン写真を撮ってもらう。まん丸の目をした担当医が、レントゲン写真に浮かび上がった骨をカーソルでなぞりながら、なにも問題ないから一週間もすれば痛みは引きますよと言う。
「そうだ、私は何も問題ない」私は強くその言葉を繰り返している。