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ドブロヴニク、クロアチアは1990年代には内戦状態だったことを知っていますか?!!

こんにちは。

前回、前々回と2回に渡って、クロアチアのドボルヴニクを中心とした旅行記を書いてきました。
3回目はクロアチアの闇の歴史について書いていきます。

そんな平和な国、クロアチアや風光明媚な街、ドボルヴニクですが、実は約30年前の1990年代には内戦状態で観光どころではなかったことをご存知でしょうか?

私はうっすらと、その「クロアチア紛争」のニュースの記憶はありましたが、ドブロヴニクに行くまで、そのことをすっかり忘れていました。

ドブロヴニク旧市街で街歩きをしている時、「ラグーサ共和国総督官邸」という歴史的建造物を見学することができました。この建物自体はドボルヴニクが15世紀から19世紀まで「ラグーサ共和国」だった時代の総統の邸宅、宮殿だった建物のようです。

その建物ももちろん素晴らしかったのですが、この中に「文化歴史博物館」としての展示スペースがあり、次のような展示をしていました。
「Božidar Gjukić War Photographs 1991 – 1992」
日本語にすると、「Božidar Gjukić氏の戦争写真 1991-1992」ということになります。

そこには、1991年という、私が日本で社会人になってバリバリ働いている時期にドブロヴニクが内戦で大規模な砲撃をされて、街の大半が破壊されている写真が80点展示されていました。

今でこそ、大勢の観光客が訪れているこの場所が、つい30年前に悲惨な戦争をしていたことにとてもショックを受けました。

さらにドブロヴニクの旧市街のスポンザ宮殿にはメモリアルルームという場所があり、30年前の戦争で亡くなった方の名前を書いた慰霊展示があります。

https://tzdubrovnik.hr/lang/en/get/muzeji/5705/memorial_room_of_dubrovnik_defenders.html

旅行から帰った後、このことが気になり、今回、改めてクロアチアの近代史を調べてみました。そこでわかったのは、クロアチアは元々ユーゴスラビアという社会主義国家でしたが、当時、大統領として国を束ねていたチトー氏が亡くなると、民族主義が激しくなり、ついには内戦状態に陥っていたことがわかりました。

もう少し詳しく解説します。

第一次世界大戦まで、クロアチアはオーストリア=ハンガリーの領土だったようです。そして、第一次対戦でオーストリアが負けると、クロアチアを含む周辺の国々は独立し、「南スラヴ人の国」という意味の「ユーゴスラヴィア王国(のち共和国)」となりました。

その後、ナチスドイツのバルカン半島侵攻により、一旦「ユーゴスラヴィア」は占領されますが、チトー氏率いる抵抗運動により、1945年に再び「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」が創設されました。そして、このチトー氏が大統領となり、1980年に亡くなるまで、チトー大統領のもとで「ユーゴスラヴィア」として続いていきます。

実はこの「ユーゴスラヴィア」は単一の国家ではなく、以下のような6つの異なる民族の共和国がまとまって統治されている連邦スタイルでした。
・スロヴェニア(宗教はカトリック)
・クロアチア(宗教はカトリック)
・セルビア(宗教はギリシア正教)
・モンテネグロ(宗教はギリシア正教)
・ボスニア(宗教はイスラム教)
・マケドニア(宗教はギリシア正教)


ところが、チトー氏が亡くなると、もともと宗教も民族も違う6つの国は、それぞれが一番であるという民族主義の動きが大きくなり、ついに1991年にクロアチアが独立を宣言すると、それに反発するセルビアを主体としたユーゴ連邦が戦争を起こしてしまいます。
この1991年から1995年までの内戦を「クロアチア紛争」といいます。

ちなみに、クロアチア人は「クロアチア紛争」を内戦とは決して言わず、「独立戦争」と表現しています。そしてドブロヴニクのラグーサ共和国総督邸で展示されていた戦争写真は、まさにこのクロアチア紛争のものだったのです。

ドブロヴニクはクロアチアでしたので、これに対するユーゴ連邦、すなわちセルビアの軍隊により、山から、そして海からの砲撃が随分あったようです。ドブロヴニクでは、この度重なる砲撃によって、城壁内部の教会や民家が破壊されました。当時はユネスコから「危機遺産」として認定されていました。

その後、ユネスコなどの支援を受けて元通りに修復され、戦争の傷跡を表通りに見ることはほとんどありません。ただ、我々が旧市街を探索している時も廃墟のような一角がまだ残されており、また、いくつかの砲弾跡は、我々にもわかるように、そのまま残されていました。

ちなみに、ドブロヴニクはこうした砲撃程度でしたが、クロアチアとセルビアの国境により近い町では、当時、大勢の民間人が双方の敵対勢力により虐殺されています。特に、当時のセルビア共和国大統領・ミロシェビッチやクロアチアの初代大統領・トゥージュマンは互いに自国の民族主義を煽っていたため、民族浄化の名の下にたくさんの民間人が虐殺されたり、難を逃れて、難民となったりしました。

現在のクロアチアはどうなっているのでしょうか。現在は、もちろんユーゴスラヴィアは消滅して、以下のような6つの国として、それぞれが独立しています。
国名は若干変化していますが、ユーゴ時代の共和国にきちんと分かれているようです。
・スロベニア
・クロアチア
・ボスニア・ヘルツェゴビナ
・セルビア
・モンテネグロ
・北マケドニア


この中で、実はクロアチアだけが、EUの経済圏とNATOの軍事圏に加入しています。まず、2009年にNATOに加盟し、その後、2013年にEUに加盟することができました。そして、ついに2023年1月より、クロアチアでは通貨がユーロとなりました。また、同時に、クロアチアは域内国境管理を撤廃するシェンゲン圏にも加わりました

ここで、私の旅行記で書いていた国境を越えのレポート記事を振り返ってみて、なぜ、入国手続きが大変だったかというと、こうしたEUと非EUのボーダー管理が多いに関係していると思います。

モンテネグロは2006年に独立をしましたが、まだEUやシェンゲン圏に加盟していません。つまり、クロアチアは現在EUおよびシェンゲン圏のボーダーにあり、他のモンテネグロに代表される非シェンゲン圏の国々との国境管理は厳しくなっているということなのです。

逆に考えると、現在のクロアチアは旧ユーゴの国々の中で一番EU統合に舵をきっている国と言えます。

しかし、つい30年ほど前に、このような隣国同志が殺し合う戦争が起きていたなんて、ドブロヴニクの街を歩いていた時には全く知りませんでした。

旧市街の石だたみや建物の壁も実は新旧で色が若干違っていたそうです。旅行前にこうした歴史について知っていたら、もう少し違った街の見方ができたのかもしれませんね。
これからクロアチアやドブロヴニクに行かれる方は、是非、こうした紛争の歴史を知ってから行かれると、より深い見聞ができると思います。

少なくとも、現在は、ドブロヴニク、特に旧市街は観光客で賑わう平和な街です。
この平和がいつまでも続きますように。

それでは。




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