キース・ヘリング展を観てわかる31歳で亡くなった天才アーティストの生涯とその作品!!!
こんにちは。
先日、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催していたキース・ヘリング展<アートをストリートへ>を観てきました。(残念ながら2月25日に閉展しています。)
この企画展では、1990年に31歳で亡くなった天才アーティスト、キース・ヘリングの素晴らしい作品とともに、彼の短い生涯についても知ることができました。
実は、この企画展には企画展用のブックが用意されていませんでしたので、今回、私の記事の中で、その内容をわかる範囲でまとめてみようと思います。
企画展に行かれた方も見逃した方もこちらを参考にしていただければと思います。
<企画展概要>
80年代アメリカを代表するアーティスト、キース・ヘリング(1958-1990)の国内では23年ぶりの展覧会です。彼の信念は副題にあるような<アートをストリートへ>というものでつまり日常にアートを拡散させ、誰もがアクセスできる機会を生み出したいというものでした。そしてSNSが存在しない時代に、作品を通じて混沌とする社会への強いメッセージを発信することでアートを通じた人々との対話という可能性を広げた先駆者のひとりなのです。(企画展概要説明から抜粋)
キース・ヘリング展<アートをストリートへ>は次のような6つの章に分けられています。
1. 公共のアート
2. 生と迷路
3. ポップアートとカルチャー
4. アートアクティビズム
5. アートはみんなのために
6. 現在から未来へ
それでは、順番に作品を紹介しながら追ってみましょう。
1. 公共のアート
入り口を入ると、まず彼の代表的なアート活動「サブウェイ・ドローィング」のたくさんの写真パネルからスタートします。
この「サブウェイ・ドローイング」とは、1980年に彼がニューヨークの地下鉄に着目し、地下鉄構内の空いている広告版に貼られた黒い紙にチョークでドローイングをしたものです。
ヘリングのこの作品は、地下鉄を利用する多くのニューヨーカーの心と記憶に刷り込まれました。
以下、ヘリングの言葉です。
「行くべきところはニューヨーク以外になかった。僕が必要とし、望んでいた強烈さを得られる唯一ぼくは作品のためにもそれから自分自身のために強烈なものが欲しかった。」
コミカルでシンプルに描かれたイメージは人々を刺激し、瞬く間にニューヨーカーを魅了しました。しかし、有名になるにつれ、ドローイングは剥がされ、売買されるようになったため、1985年に中止しました。
この章には、他に次のような作品も展示されていました。
<ツェン・クウォン・チ 1987>
<エンジェルオルティスとの共同制作 1983 >
<男性器と女性器 1979>
2. 生と迷路
1980年代当時のニューヨークは、ヘリングにとって新しい文化が始まり、ゲイカルチャーも華やぐ自由で刺激的な場所でした。ヘリングはアーティストのジャン・デュビュフェ、ピエール・アレシンスキー、作家のウィリアム・S・バロウズの作風や生き方に影響を受けました。また、アメリカの画家ロバート・ヘンライの著作『アート・スピリット』に大きな影響を受けつつ、アフリカ芸術からの着想も得たということです。
当時のヘリングの言葉です。
「人生は儚い、それは生と死の間の細い線
ぼくはその細い線の上を歩いている
ニューヨークに住んで、飛行機で飛び回っているけれど
毎日死と向き合っている」
この章では、ヘリングがこのニューヨークで過ごした10年間の中で制作した作品を見ることができます。
<ピラミッド 1989>
<フラワーズ 1990>
<スリー・リトグラフス 1985>
<ストーンズ>
<ドッグ>
<バッドボーイズ 1986>
<無題>
3. ポップアートとカルチャー
80年代のニューヨークは不況の影響で犯罪が多発していました。一方でクラブシーンは盛り上がり、ストリートアートが隆盛を極めていました。
その中でも「パラダイス・ガラージ」はヘリングが最も愛したクラブでした。
DJの神様ラリー・レヴァンのプレイと踊りに酔いしれるだけでなく、ヘリングにとっては創作のアイデアが湧き出る神聖な場所だったようです。
ヘリングはポップアートだけでなく、舞台芸術や広告、音楽などと関わりながら、制作の場を広げていきます。
ヘリングの言葉が書かれていました。
「アートとは何か 何を意味しているのか それは永遠の議論
アートの意味は アーティストのものじゃなくて
それをみる人が感じるもの
ある意味 鑑賞者もアーティストなんだ」
ヘリングは作品制作中はスタジオでも野外でも常に音楽を流していました。また、10代からロックを聞いて、グレイトフル・デッドのライブに出かけました。
ヘリングがニューヨークに移った70年代はちょうどパティ・スミスに代表されるパンクロックブームでした。クラブで築かれた人脈を起点に、ヘリングは数多くのミュージシャンのレコードジャケットのアートワークを手がけます。
また、グレイス・ジョーンズやマドンナなどのミュージックビデオやコスチューム、ライブパフォーマンスなどでもコラボレーションしていました。
パラダイス・ガラージのクロージングナイトでプレイされたセットを記録したレコードジャケットのアートワークもヘリングが制作しました。
ここでは、そんなヘリングが制作したアートワークとレコードが展示されていました。
また、この章ではヘリングが制作した「アンディ・マウス」シリーズについても展示されていました。
ヘリングは幼少期から影響を受けていたミッキーマウスとポップアートの代表的なアーティストであるアンディ・ウォーホルを融合させて「アンディ・マウス」を創造し、シリーズ作品を制作しました。
ここでは、それを見ることができました。
それ以外にも、この章(コーナー)では、他のアートと連携、融合した作品を色々と見ることができました。
<無題(繁殖の図)1983>
<セルフポートレート 1989>
<ラッキーストライク>
<スウィート・サタデー・ナイトのための舞台セット 1985>
ニューヨークの芸術劇場ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで行われたダンスパフォーマンスの舞台背景を制作したもの
<クラブDV8 「キース・ヘリングルーム」公開 1986>
<甘い生活 1989>
<スウォッチ 1984>
<モントルー 1983>
モントルージャズフェスティバルのポスター
<キースヘリング84年へ 1983>
こちらはダンサーにボディペインティングしたものを写真撮影し、ポスターにしたもの
<秘密の牧草地のための舞台セットの一部 1984>
<レトロスペクト 1989>
ヘリングがよく描いたトレードマークともいわれる吠える犬、天使や人々など、繰り返し描写されてきたモチーフが24コマの画面で構成されている
4. アートアクティビズム
ヘリングは大衆にダイレクトにメッセージを伝えるため、ポスターという媒体を選択しました。題材は反アパルトヘイト、エイズ予防、性的マイノリティの人々のカミングアウトデーなど、社会へのメッセージを100点以上に及ぶ作品があります。
展示されている作品は次のものでした。
<南アフリカ解放 1985>
<沈黙は死 1989>
<無知は恐怖、沈黙は死>
<セーフセックス>
<アートを使ったエイズとの戦い>
<ヒロシマ平和がいいに決まっている!!>
<クラックダウン 1986>
<ナショナル・カミングアウト・デー>
<核放棄のためのポスター>
<美しさで頭をいっぱいにしよう! 本を読もう!>
このことについてのヘリングの言葉です。
「アーティストは与えられた歴史のひとこまにおける社会の代弁者だ
僕たちが生きるこの世の中のことをどう捉えているのか」
5. アートはみんなのために
ヘリングはアートを一部の知識人や富裕層にだけでなく、多くの人に届けたいと考えていました。
そのため、ストリート、地下鉄でのパフォーマンス、そして自身がデザインした商品を買いやすい価格で販売したポップショップを開設しました。また、世界の数十ヶ所で彫刻や壁画などパブリックアートを制作しています。
<赤と青の物語 1989>
子供だけでなく、大人にも訴えかける視覚言語が用いられた「赤と青の物語」を制作しました。「赤と青の物語」は子供たちのために作られた20枚のシリーズで、アメリカの学校や子供美術館などで教育用に使用されています。
子供たちにアートを触れる機会を増やすために、他にも小児病院や孤児院、そして公園に作品を制作して設置しています。
ヘリングの言葉です。
「子供たちは僕たちが忘れてしまっている何かを知っている
子供たちは毎日生きていることに満足している
それは本当はとても大切なことでそのことを理解して尊重することができたら
大人たちは救われるんだ。」
<ルナルナ 私的な狂想劇 1986>
1987年、ウィーンのアーティスト、アンドレ・ヘラーがドイツのハンブルクにてルナルナ・パークと題された移動式遊園地をプロデュースした際、ヘリングも参加し、デザインした絵による紙の彫刻作品を2000部出版しています。
6. 現在から未来へ
この章では、ヘリングが亡くなる前に制作した作品を中心に見ることができます。
<ブループリントドローイング 1990>
ヘリングが22歳の時に作成したドローイング作品を亡くなる1ヶ月前に版画で再制作しました。この作品に解説はありません。鑑賞者がそれぞれ意味を考えるものです。
ヘリングの言葉です。
「アートは不滅だ 人は死ぬ 僕だって死ぬ
でも本当に死ぬわけじゃない
だって僕のアートはみんなの中に生きているから」
<ペルシダ 1986>
ヘリングがアフリカ美術に影響されてアクリルキャンパスで制作したもの
<無題 1988>
ヘリングの独自のスタイルにアンディ・ウォーホルのカモフラージュの作品を引用したもの
<イコンズ 1990>
ヘリングが亡くなる1990年前に制作された5枚組の版画作品、独自の象形文字をモチーフとしている
<キース・ヘリング トニー・シャフラジ画廊 1988>
ニューヨーク最後の開催となった個展のためのポスター、この個展はヘリングが達成したものの総括であったようです。
企画展では、この「6. 現在から未来へ」の後にひとつコーナーがあり、そこでは1988年近辺にヘリングが日本を訪問した際の写真や関係品が展示されていました。
印象的だったのは、ヘリングが当時、若者でごった返していた原宿の路上にドローイングしていたビデオです。
このようにして、国内では非常に珍しい、ニューヨークで若くして亡くなった伝説のアーティスト「キース・ヘリング」展を見ることができました。
ヘリングの絵は、繊細というよりは、艶やかな色彩で非常に力強いメッセージ性があるデザインが多いです。また、それと合わせて「アートを大衆に」という信念はぶれることなく、活動期間中に世界を奔走したこともわかりました。
ヘリングが今も生きていたら、と思うと悔やまれます。
企画展の最後に彼の作品をモチーフにしたグッズが数多く販売されており、私もそうした作品グッズを購入し、現在、部屋に飾っています。ヘリングの作品は毎日見るたびに気分が上がる、不思議な効果を持っています。
それでは