シモーヌ・ヴェイユ~「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」

人はなぜ勉強するのだろう?
競争心から?
人から頭良いと思われたい虚栄心から?
良い大学に入りたいから?
良い就職先を得たいから?
そんな功利的な衝動ではなく、純粋な知的好奇心から?
自分は子供の頃から知的好奇心が強く、その衝動に従ったので、好きな科目はよくやるものの、嫌いと思った科目は見向きもしない我儘放題だった。そしてそんな自分をカッコいいと思っていた。

しかし後年、学生時代は嫌いだと思っていた分野に興味が出てくることも多々あるようになった。逆に、若い頃に興味のあった分野にだんだん関心が薄れていくこともあった。

仏の哲学者シモーヌ・ヴェイユの「神を待ち望む」に、「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」という一章がある。これを読んだとき、勉強とは功利的なものでは勿論なく、知的好奇心の満足というものでもなく、魂にさえ達して魂を耕して霊的次元で変容させるような深いものだと思った。その一部を抜粋しよう。

「もし本当に注意して幾何の問題を解こうとしながら、一時間たっても、はじめからちっとも進んでいないとしても、その間の一分ごとに、もっと神秘的な他の次元で進んでいるのだ。それと知らなくても、感じなくても、外見では実りのないこの努力は、魂の中により多くの光をあたえている。実りはいつか後になって祈りのときにみとめられよう。

もちろん実りはまたそのうえに、何か知性の領域に、おそらく数学とはまったく縁のない領域にもみとめられよう。

おそらく、いつか、この効果のない努力をした人は、この努力のゆえに、ラシーヌのある詩句の美しさをいっそう直接にとらえることができるだろう。

けれどもこの努力の実りが祈りのときにみとめられるに違いないということは確実であり、何の疑いもない。」

ヴェイユはこの一章で、勉強がキリスト教の祈りの効果に役立つと言っている。しかし、キリスト教など宗教に限定する必要もないだろう。雑念を追い払い、集中している時間が、実は祈りそのもので、それが神への愛をも育むという風に受け取った。


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