
映画『no other land』を観て
スピリットの問題だった。彼らは、彼らの土地に根差している。彼らは、パレスチナの魂そのものだった。彼らの肉体、喋る言葉を通して、パレスチナの大地の神が、語るのだ。歌うのだ。踊るのだ。彼らの息、血肉が、パレスチナそのものなのだ。
激情を煽動するような過激な描写があるわけではない。強いプロパガンダを打ち出すわけではない。彼らの暮らしを日常を、その迫害、侵略、不条理な暴力に、淡々と抵抗する日々を、カメラはとらえる。
別に、特別な宗教の儀式をしているわけでも、祈りの言葉を唱えるわけでもない。だが、彼らの身のこなし、画面を通して伝わる汗、体温、息遣いに、その粗末な穴蔵のような住まいの床に敷かれた敷物やファブリックに、土地に根差したアラブの神の血が、静かに脈付いている、その脈動のグルーヴ、リズムが、通奏低音として、映画のバッググラウンドに鳴り響いているのだ。
対して、侵略者側のイスラエルの人々は、どうだろう?一律の軍服に身を包んだ彼らに、ユダヤの何かを、まったく、私は感じなかった。そこにあったのは、アメリカなるものであった。資本主義社会の象徴、記号、そのパワーポリテックスを司る軍神マルスの軍隊としてのGIジョーだった。
彼らは、悪でもなかった。ただ、無感情、無個性に、課されたルーティーンワーク、義務としての破壊、侵略をこなしているだけだった。
スピリットと資本主義の戦いなのだと思った。
土地に繋がれ、祖先の血に縛られる人間の性を否定し飛躍しようとした、言い換えればコスモポリタンなグローバルな未来を夢見た人々の夢の残骸が、神に繋がり古代からの血をたぎらせる人々の命を生活を大地を根絶やしに破壊しようとしているのだと思った。
人間性・ヒューマニティを、中二病の時に、自らの魂にうまく落とし込めなかった人々に取り憑いた空想科学主義の夢魔の狂気。それに踊らされる人々。
そして、その人達に、にべもなく、殺される人々。
殺される側の人々は、あくまで、人間だった。
あくまでも、どこまでも、宇宙と地球と自然を、その全身に宿しているから、迫害され、殺されるのだと思った。
優しく、物悲しく、控えめに響くアコースティックな弦の調べが、耳に残って離れない。

私が、幼い時の、山梨の山間の田舎町の部落で、昭和の空気に包まれていた、あの頃の隣近所の人達との魂の距離、交わす目線、自然との関係、そういう素朴な土着な人と人との間合いを、この映画にみた。
物申すという大上段も頑なさもなく、ただただ、この映画は、命と人間と心を、あまりに非道で不条理な暴力を、静かに悲しく見つめる目線で伝えていた。
その静けさ、魂の気高さに、心から敬服する。
神は、貴方たちの味方だ。
私は、強く、そう確信した。
スマホが、彼らの頼みの綱であり、しかし、それは、資本主義の産物であり。そんな裏腹さ。
デジタルがDNAを書き換えるような社会で。
こうして、スマホのブルーライトに照らされて文字を打ちながら。
スピリットと魂とノスタルジアの記憶が、デジタルの0101に反映されることを祈る。
the degital for our souls and spirits.
『ノーアザーランド』が、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞したそうです。ほんとうに良かったです。これを機に、パレスチナへの認知、感心が高まると良いです。