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printemps誕生秘話~第1章~

はじめまして。福島県会津若松市でマンツーマンサロンを経営しております。美容室printempsの加藤はるなと申します!

2017年4月オープン。平日土日ほぼ満員御礼。来客0人無し日を継続中。2019年「新美容出版 経営とサイエンス」掲載。美容業界誌に掲載されるという事は、美容師人生でもとても貴重な経験させていただいています。

一見華やかな美容師lifeに見えますが、全国どこの美容師さんも沢山の困難を乗り越えて独立開業と至っていることでしょう。

そんな大きな大きな美容業界の中の、福島県の田舎にある小さな小さな美容室誕生のお話です。

高校時代。空手部でお洒落とはかけ離れている部活に没頭する日々でした。プライベートではお洒落をすることがとても大好きで、この頃に美容師になろうと志ました。高卒業後美容専門学校に入学卒業後都内への就職が決まりました。

アシスタントHAL

 夢の美容師人生のスタートです!憧れの東京 下北沢 個人サロンに就職。とてもお洒落なお店で一人一人名前をつけられました。私の名前は HAL。美容師人生スタートと同時にHALというアシスタントのスタート!名前もなんだかお洒落でかわいいし、絶対成長してやる。私は空手を12年続けてきたから気合も根性も誰にも負けない。そんな強い意志だけを背負い美容界へ突入したのです。

がしかし、、、

男の子に憧れを抱きすぎた私は空手の世界にどっぷりつかり、美容業界には全く不向きの完全に体育会系に形成されていました。お客様に触れるのにも、「雑」でシャンプーも 力加減が人より強く、石で洗っているのか!!と先輩には叱られる始末で酷い状態でした。通常、一か月で合格するシャンプーの技術チェックはいくらやっても不合格。いつまでたってもできないアシスタントでした。アシスタントになり半年

ついに言われたこの一言、、、

「HALちゃん。あなたは下北沢で一番できない美容師だよ」

私は出来ない人間なんだ。先輩の一言で今までの積み上げてきた自信が一気に崩れる。抜け殻のようになってしまった私は人生初めての挫折を経験します。自信を無くした私は体調不良を同時に起こし美容室を辞めるという選択をしました。決めた事に対して辞退するという選択をするのも初めてで、すべてがうまくいかないと自暴自棄になってしまいました。自分の体と心をリセットするために休息をとることに。。。この時、この経験が生かされることには、もちろん予想もしていなかったでしょう。

異業種からの気づき

休息をとった私は日常の生活を取り戻すために何かをしたい。しかし何をしたらよいのだろう。看護師である母からこんな一言をいわれました。「よかったらうちの施設でボランティアしてみたらどう?」介護施設でのボランティア。確かに当時の私は自信喪失をしていたので (笑)どこかに勤めるという事ですらプレッシャーを感じていたのです。当たり前の日常を取り戻したい。そんな思いから母の誘いで老健介護施設にてボランティアにすることになります。美容業界とは、かけ離れた初めての世界。しかし両親が看護師という事もありどこか親近感がある空気を感じていました。初めて触れる介護のお仕事。美容業界では絶対に体験できない排せつ物の処理、かおり 今でも覚えています。この時初めて身をもって両親の仕事の大変さ、介護士さんに対する尊敬の意を覚えました。お風呂介助の時、髪の毛を乾かしてあげて。と介護士さんから。自然と美容師アシスタントとしての経験がいかされ、利用者さんに大変喜ばれました。今でもしっかり覚えてる気持ち。「お年寄りが頑張って生きているのに私は一体何をしているのだろう」

「やっぱり美容師になりたい スタイリストになりたい!」

そう心に決めたのです。よし美容師を再スタートするぞ。いや、わたしは出来ない美容師なんだ。また使い物にならなかったらどうしよう。最初の一歩がなかなか踏み出せません。そこで母がまた一言。「あ!あそこの美容室に話だけ聞いてもらおうか。」とまた背中を押してくれました。心身ともに不安定だった状況を自分が何より理解していました。しかし美容師を目指したい。そんな思いで母から紹介をうけた美容室に向かいました。

今までの経緯と今の状況を私は正直に伝え、今の私にできる要望をオーナーに伝えました。

「タダ働きで良いので掃除だけでもやらせてもらえませんか?」

再スタートへの一歩

何時代や!!と突っ込みたくなりますが 当時、私の本気の思いでした。すると、タイミングが重なりスタッフが一人産休に入るという事でそのまま務める事になり美容師再スタートの一歩を踏み出しました。当時21歳。私は24歳までにスタイリストになると決めていました。そこに到達するにはどのようにしたら良いのかを考え、紙にまとめました。務めていたお店は教育のカリキュラムが無い美容室でした。昔の美容室は「見て覚える」が技術の世界の鉄則でした。カリキュラムがない。そんな事よりもわたしは再スタートが出来た!!!こんな状態の私を雇ってくださった。そんな思いが強かったのです。

しかし成長するためには勉強が必要だ。私は自分に今必要な知識、技術に該当する美容雑誌を大量購入。サロンワーク併用しながら自分で勉強も始めました。カットの勉強に入るとき

「私100人連れてきますので見ていただけませんか?」

オーナーに自らスタイリスト合格までのカットモデル人数と基準をお願いしました。もちろん、やる気にみなぎる私を快く受け入れてくれました(笑)教育が組み込まれていなかったサロンでしたが、手探りの状態の私に、オーナーも基本は教えるからと カットの基礎 セニング レザーカット メンズカットと教えられる技術を教えてくださいました。技術が始まれば謎ばかりでこう言う時はどうしたらよいのだろう?そんな時に会津若松市の美容業界で一目を置く!注目人物!が頭によぎったのです。そうだ彼に聞こう!

突撃Yushin Eclat 

撃晩御飯ばりの突撃ユーシン!!会津若松市Yushin Eclat 小沢さんに聞こう!大量の美容本を持ち込み、わからないことを教えてくださいと!相談しました。(笑)そしてなによりも パワーあふれる人物に魅力を感じていたのです。とても親切に教えていただき、スタッフの皆さんにも背中を押して頂きました。この場をお借りして 小沢さん。皆さん。あの時はありがとうございました。

最強の技術とは

スタイリストデビューまでアシスタント業務も一生懸命しました。沢山のミスや失敗もしました。沢山のお客様と触れ合うことが多くなるにつれ、いつも褒めて頂く技術がありました。それとは...シャンプーです!結局下北沢の店舗で1年間合格を貰えなかったシャンプー技術がお客様に大変喜ばれる技術になっていました。今思い返すと、当時先輩が合格の基準を求めたいたラインは「お客様を気持ちよくする」という「心」だったのでしょう。技術の試験に合格をするという事は目的ではなく美容師というお仕事は、「お客様を満足させる」ここが一番の仕事の醍醐味だったという事を。そして現在printempsの看板メニューとなるTOTONOE、整頭術の技術を習得しました。

100人カットを終え当時の店長にも呆れられるぐらい(笑)「加藤さん。もう入客していいよ」ついにスタイリストデビューです!目標であった24歳にスタイリストとしてデビューします!

おっしゃー!!やっとスタイリストだー!!

がしかし、そんなに現実は甘くなかったですね。(笑)まだまだスタートラインに立ってはいなかったのです!



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