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「小説 名娼明月」 第62話:ただの男でない

 お秋の前になり後になって躡(つ)いてくる男は、五十余歳の商人風である。何を入れているのか、大きな風呂敷包みを背負っている。
 変な男だと思って、お秋が急ぐと、その男も急ぐ。遅れようと思って足の歩みを緩むれば、その男も歩みを緩める。
 博多近い所まで来ると、とうとう、その男はお秋に声かけ、太郎兵衛(たろうべえ)の宅(うち)を今朝出られたるお秋どのとは、あなた様かと訊いた。お秋は、その男が自分の名前を知っているのが不思議で堪らぬ。言わるる通り、自分がお秋であるということを答うれば、その男は、しばしば頷(うなず)いてみせた。何でも呑み込んでいるといった風(ふう)である。

 「唐突(だしぬけ)に言葉をかけては不思議と思わるるか知らねど、私は博多に住む古着屋。今宿界隈へ出商いの帰路(かえり)に、今朝太郎兵衛のところに立寄れば、あなたがたった今発たれたばかりとのところ。太郎兵衛は、あなたのお気の毒なるお身の上を一通り話したる後、今からすぐに、あなたの後を追って、今宵一夜なりとも金子(かね)の要らぬ家へ案内して、あなたを劬(いたわ)ってはくれまいかとのことで、あなたのの扮装(みなり)から顔形まで詳しく話してくれました。
 私は太郎兵衛の話を聞くや、あなたのお身の上がお痛わしくて堪らず、急ぎ、あなたの後を追い、すぐと追付きはいたせしものの、もしや人違いをしてはと思い、今まで言葉もかけ得ずにおりましたる次第。
 私の宅(うち)は狭苦しければ、あなたをお泊め申さんこと思いもよらねど、幸い私の常に出入する家に、旅の難渋者を救うが道楽の家あり。かねて太郎兵衛の知辺(しるべ)でもあれば、今より直ちに、その家にお世話いたすべし」

 と語る模様の、全く嘘らしくはなけれど、お秋は、知らざる人の世話になりては、またいかなる禍(わざわい)の種子(たね)を蒔くやもしれずと思ったからである。
 さまざまに言葉を尽くして断ってはみたれど、それでは、せっかくの太郎兵衛の頼みを無にするというもの。今度太郎兵衛に逢ったとき、自分の言い訳が立たぬゆえ、自分の顔を立つると思って、諾(き)き入れてくれとのことに、お秋は今は、退進(のっぴき)ならぬ場合となった。やむなく、この言葉に従うこととなって、その男に躡(つ)いて、博多の町に入った。
 博多の町に入って、道の四五町がほども行くと、男は、ある横町に曲がって、一見も家の門口に立ち、ちょっと家の中を窺(のぞ)いてみた上で、お秋を外に待たせておいて、その家の中に入ったが、まもなく出てきて、お秋を呼び入れた。

 「ここは自分の親族にあたる家である。訊けば自分の家では、子供の病気が危うき由(よし)。今よりすぐに帰宅せねばならぬゆえ、済まぬ次第ではあれど、当家の主人が私に代わりて案内いたしてくれる由(よし)なれば、先に申せし家まで一緒に行きたまえ」

 と言って、この家の主人に、お秋を引合せた上で立去った。
 この家の主人は、年の頃三十七八、眼が凹んで光っている、色黒い、人相の善くない男である。紺の胸掛(むねかけ)に大縞の濶袖(ひろそで)を着て、細帯締めた姿が、なんとなく、ただの男ではないようである。
 お秋はこれを見て、いささか疑わぬ訳にはゆかなかった。もしや、こうして自分を悪漢(わるもの)らのところへ連れ行き、皆して自分を慰もうという計略ではあるまいか、と思えば、お秋は気が気でない。

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