「小説 名娼明月」 第64話:薩摩屋のお谷
男が立ち去ると、まもなく、その邪慳らしい女も立去ったが、女はやがて、覚醒めるばかり綺麗な着物を持って入ってきた。
「さような穢(むさく)ろしき着物は、早く脱ぎ捨てて、これを着換えたまえ。いや、その前に、ひとまず風呂に入られたがよかろう」
と、大層見下げ果てたる物の言いようではあるが、また、わが子に物を言うような馴れ馴れしさもある。
ここにおいて、お秋は、いよいよ合点が行かぬ。
「いろいろご厄介になりまする。着物は、このままにてたくさんなれば、どうぞこの上にお構いなく」
と云って叮嚀(ていねい)に頭を下ぐるを、女は斜めに見下ろして、
「そんなに藪入(やぶいり)にでも来た了簡はなりませぬ。一旦躯を買い受けしからは、あなたの躯は、これより万事、私の指図に従ってもらわねば困りまする」
と、思いよらぬ女の言葉である。
聞いてお秋は驚きのあまり、暫くは物も言えなかった。
「何と仰っしゃる! 私を買取ったと仰っしゃいまするか?」
と訊くを、女は少しも騒がず、
「あなたが自分の身を金に売りたいと、今の男に頼んでおればこそ、男と一緒にここにも来、また金の取引も済ましたる訳ではありませぬか」
との意外の言葉に、お秋は少しも、さようのこと頼んだる覚えなきことを弁解し、自分がここに来るまでの事情を詳しく話し、宿屋と思い込んで来たことを、繰返し繰返し、哀訴するように話してみたけれど、女は、そのくらいのことでは承知せぬ。
「よし頼んでいようが、いるまいが、もはや、あなたの躯は、ここに買取っている。そうして尠(すくな)からぬ身代金も、あの男に払ってある上は、いやでも応でも、女郎にならねば叶いませぬ」
と言って、お秋の言葉には耳をも藉(か)さぬ。
けれども、お秋は、それに服従することはできぬ。いかなる大金を先の男に払いあろうとも、それは少しも自分の係(あずか)り知らぬところである。
「自分は、どうあっても、女郎になることはできませぬ!」
と言い切るを、女は皆まで言わせず、
「いやなら、いやで通してみよ! そちごとき田舎娘に我がまま言わしておく自分ではない! 自分を誰と見らるる? 薩摩屋のお谷と云えば、廓(くるわ)内、知らぬ者なき鴇母(やりて)の婆、どこまでも我がままを通し得るなら、通してみよ!」
と、女は火鉢の火箸を握(と)って、お秋に詰め寄った。
このとき、また一人、仲居らしい年増女が入ってきた。そうして、しきりにお谷を宥(なだ)めて上に、お秋に向かい、
「どうした間違いからこうなったものかは知らねど、大金払って買受けし和女(あなた)を、「おお、そうであったか」と、すぐに手放しては、女郎屋の商売に立ってはゆかぬ訳。それより、代官所もある世の中、との不埒を働いたる男とやらを、後で代官所に突出して、調べてもらえば、万事判ることであれば、まずそれまでは、お谷さんの言わるるとおり、素直にその指図に従った方が、和女(あなた)のため」
と宥(なだ)め賺(すか)すけれども、お秋は、ただ畳にうち伏して、泣くばかりである。