「小説 名娼明月」 第56話:山賊の家
座敷からは夜ながら、北の方、海一帯が目の下に見渡される。漁火は以前にも増して鮮やかに見られる。金吾の満足はこの上もない。
やがて先の馬士(まご)の親爺も、足を濯(そそ)いで上がってきた。金吾の気を外らさぬためであろう。いろいろの話などして聞かせて待遇(もてな)すうちに、濁酒が運ばれ、ついで飯も運ばれた。
馬士は、しきりに金吾に酒を薦める。病気上がりの体に障ってはならぬからと言って金吾が断るのを、馬士はいい加減に言いくるめて呑ませようとする。
ようやくにして飯が済むと、また話に花が咲く。さまざまの世間話に金吾を喜ばせて、馬士の親爺が茶の間の方に立去ったのは、十時過ぐるころであった。
金吾は病気上がりの体で久しぶりに道歩きをした疲れがあるから、それからすぐと寝床に入った。昨日まで繁華の町中に寝て、今日は思いがけなくも、この山中の一軒家に寝ることとなった。あまりその変わり方の甚だしいのに、目が冴えて眠られぬ。ことに松風の音や谷水の音が枕に響いてきて、ますます気が澄んでくる。
かくては、また明日の旅に障るからと思って、無理にも目を閉(つぶ)ってはみれど、やはり駄目である。
そのうちに小便を催してきたので、起き上がってみたが、まったく不案内の家の事とて、全然方角が判らぬ。とあいえ、これくらいのことで家人を呼び起こすのも気の毒だと思って、金吾は縁の傍らの雨戸を押し開いてみたところが、思いがけなくも廊下に出た。廊下をずっと進んでいったが、どこまでも廊下が尽きぬ。
金吾はあまりの意外に驚いた。窓から外の方を望んでみると、本家は遥か後の方に見えて、自分の今立っている廊下は、深い森の中にある。最前縁側から眺めてみた時には、この森林の中に、かかる長い廊下が続いておろうとは、少しも気付かなかった。これは不思議である。自分の病態なるを侮って、狐か狸かが誑(たぶら)かしているのではあるまいかと思えば、あまりよい心持ちもせぬ。自然と足を返し、廊下伝いに以前の座敷に帰ってきた。
金吾は、布団の上にじっと坐りながら考えた。
「この家は実に不思議である。こんな家の何のために、かかる幾十間もあるような廊下が附いて入るであろうか? かの馬士の親爺は、樵夫(きこり)が兼業だと自分に語った。樵夫や馬士を稼業する賎しい者が、こんな家の構えをしておるとは、どうした訳であろうか?」
これには何か仔細がなくては叶わぬことである。
この山中の、この二軒家。この家にして、この廊下と、案ずれば案ずるほど不思議で堪らぬのである。
「もしやこれは、山賊の住家ではあるまいか?」
と疑ってみれば、かの馬士の親爺の面魂(つらだましい)から、自分をこの家に引っ張り込んで酒を強いたことまでが、いかにも山賊らしく見える。
「もし果たして山賊ならば、今にどうとか仕掛けてくるに相違ない! もはや油断はならぬ!」
と、金吾は急ぎ帯を引き締め、一刀左に掴んで立上がると、すぐに行灯を吹き消した。室(へや)は真の闇となって、綾目も分かぬ。
金吾は竊(ひそか)に前後の様子を窺(うかご)うて、再び先の廊下に踏み出した。このとき突然、庭の落葉を踏む足音が間近に聞こえた。
「さてこそ、曲者、来たりしか!」
と、金吾がじっと呼吸(いき)を殺して窺(うかが)えば、この足音の主こそ、まさしく、かの馬士の親爺である!
彼は金吾が廊下に立っているとは夢にも知らぬらしく、廊下の軒下に沿うて、向こうへ足音を偸んで行った。