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ドキュメントが生み出した官僚制――ハラリ最新刊『NEXUS』を読み解く(第4回)
はじめに
これまで「物語」がいかに人類を大規模なネットワークに導いてきたかを見てきました。私たちの脳はストーリーを通じて膨大な情報を共有し、遠く離れた人どうしを結びつけてきたのです。しかし、詩や伝説、神話だけでは、いざ“国を運営”する現実的な仕組みまでは作れない、という大きな問題が残ります。
税金をどこからどれだけ集めるのか、下水道をどう整備するのか、資源や人材をいかに管理するのか——こうした管理業務には、口承の物語だけでは到底追いつかないほどの詳細なデータと正確な記録が求められます。ここで登場するのが「ドキュメント(書類)」という第二の画期的情報技術です。
本稿ではハラリ氏の『Nexus』第3章「Documents: The Bite of the Paper Tigers(紙の虎がもたらす衝撃)」を題材に、
書類がどのようにして巨大な行政組織(官僚制)を生み出し、強大な力をもたらしたのか
その背後にある「現実を創り出す」ほどの影響力
そして、書類による秩序や権力が生み出す歪みや危険性
などを、丁寧に掘り下げていきます。
ワンメッセージとしては、
「書類という情報技術は、巨大社会の基盤を支えつつ、その不透明性や硬直性によって『真実』を歪め、時に人々の運命を左右するほどの影響力を持ってしまう」
という点をしっかりと押さえていただきたいと思います。
1. “物語”の限界:ロマンだけでは国は動かない
1.1 国を生んだ詩と物語
前章までに、詩や物語が巨大な社会運動を引き起こす原動力となる例として、ユダヤ人詩人ビアリク(ハイム・ナフマン・ビアリク)や思想家テオドール・ヘルツルの功績が挙げられました。ビアリクはロシア帝国下のウクライナで迫害される東欧ユダヤ人の悲劇を歌い、「自衛力と自分たちの土地が必要だ」という情熱的メッセージを詩に込めました。ヘルツルは『ユダヤ人の国』(1896年)や『旧き新しき地』(1902年)といった著書で、パレスチナにユダヤ人国家を建設する“夢”を描き出し、のちのシオニズム運動に多大な影響を与えました。
しかし、それだけでは道路や学校、下水道は作られません。たとえば、ビアリクが歌った詩にどれほど人が感動しても、それはあくまで人々の士気や理想を高めるだけで、実際に国家を運営するには綿密なデータ管理と記録が欠かせなかったのです。
1.2 書類がなければ成り立たない「税」と「インフラ」
国を動かすには、詩的情熱だけでは解決不能な事務作業が山のようにあります。
税の徴収: 誰がどれだけの収入・財産を持ち、いくら納税すべきか。滞納や免除は?
公共事業: 下水道や道路、学校や病院をどこにどれだけ作るか。予算配分は?
これらを正確に知り、運用しようとすれば、口頭伝承や物語の形では到底カバーしきれない詳細情報が必要です。「村の長老が覚えている」「神話の中に示唆がある」程度では、都市規模で住民が何万人と増えた段階で破綻してしまいます。
2. 第二の情報技術:「書類」という革命
2.1 リストはストーリーに勝る!?
石板や粘土板による文字記録の始まりは紀元前3000年頃のメソポタミアにさかのぼります。ここでは、文字が誕生した目的の多くが「税・交易・生産物」の記録でした。たとえばウル第3王朝(紀元前21世紀頃)の粘土板には、「◯日には羊が15頭、翌日には7頭… 合計896頭」といった納税・貢納リストがびっしり刻まれています。
ストーリー形式で「ある日、村人が困って…」と情緒的に書かれるのではなく、淡々とした数値の羅列です。人間は物語を記憶する能力に長けていますが、こうした大量の数値リストは頭の中だけでは保持しきれない。粘土板や紙に書き留めることで、それまで不可能だった規模の情報管理が実現したのです。
2.2 「書類が現実を作る」という逆転
書類は「外の現実を単に写す」ものではなく、しばしば新たな現実を創造します。古代アッシリアでは、借用証書を返済時に「殺す (kill the document)」という表現が使われていました。
借金を完済しても、証書が破棄(“殺される”)されない限り借金は残る
逆に返済していなくても、証書が紛失すれば借金はなくなる
紙や粘土板上であっても、書かれたこと自体が“現実”として機能するのです。そのため、ひとたび官僚的な文書管理が確立すると、中央権力は「記録がある=真実」「記録がない=虚偽」とみなすようになり、膨大な情報を掌握しやすくなります。
3. 官僚制(ビューロクラシー)の誕生
3.1 紙の虎:秩序を生む“分類”と“区分”
「ビューロクラシー(官僚制)」の語源はフランス語で「書き物机」を意味する“bureau”だと言われます。机の引き出しごとに文書を分類し、必要なときに素早く取り出せるようにする。こうした情報整理術が広大な帝国や国家の運営を可能にしました。
大量の文書を扱うため、役所は多数の部署や専門家を抱え、
「ここは税務課」「あちらは戸籍課」と分割して管理する
この「引き出しに入れる」方式は情報を見つけやすくする代わりに、しばしば「現実を無理やり引き出しに押し込む」弊害を生みます。つまり、個人の事情がフォームの選択肢にないなら、あてはめられずに排除されるなど、真実より秩序が優先されがちなのです。
3.2 神話と同様、真実より秩序を優先する
実は、物語(神話)も秩序を生み出すために細部を省略・脚色しがちでした。しかし、官僚制もまた「書類」という新しい形で、秩序維持を最優先する」点では同じ構造を持ちます。
物語: “国の祖先神話”や“民族の英雄伝説”で国民を束ねる→不都合な史実は消されやすい
官僚制: フォームや規則で“現実”を管理→複雑な人間関係や地域差は切り捨てられやすい
いずれも、大量の人々を効率よく統合するために、事実を単純化または歪曲する傾向があるのです。
4. 書類による“現実変容”の実例
4.1 「反乱軍はまず公文書館を焼く」
歴史を振り返ると、多くの反乱や革命で「まず文書を焼く」行為が行われています。
1381年 イングランド農民一揆: 大学の公文書館を焼き討ちし、領主の税台帳などを破壊
66年 ユダヤ大反乱: エルサレムの中央文書館を燃やし、債務記録を消滅
1789年 フランス革命: 地方や封建領主の記録が次々に炎上
反乱を起こす民衆は文字が読めなくても、「紙がある限り、自分たちは搾取や債務から逃れられない」ことを知っていました。書類こそが権力の根拠であり、借金や義務が書かれた紙を破壊すれば、理屈の上で債務も消滅するからです。
4.2 カフカの悪夢:誰が何のために裁くのか
「書類が決める運命」を文学として描いた代表格が、フランツ・カフカの『審判』です。物語の主人公Kは、正体不明の役所から理由も知らされず逮捕され、書類上の手続きに振り回されます。何をすればいいか、誰が権限を持つのか、一切が不透明。最終的にKは意味もわからぬまま処刑される結末を迎える——まさに、官僚制のブラックボックス化が生む恐怖を象徴しています。
進化の歴史を振り返ると、人類はオオカミやライオンのような肉食獣と戦う本能的恐怖には適応してきましたが、「書類という怪物」とどう戦うかについては何の生物学的プログラムもありません。そのため、私たちは“文書に支配される恐怖”を理解しづらいのです。
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