夢の生活 超短編
「君は誰だ?」
「何、寝惚けてるの?早く準備しないと会社遅れるわよ。」
僕はこの女性を知らない。
「ヒロシ、コーヒー飲むわよね?」
ここは間違いなく僕の部屋だ。問題は知らない女が存在して僕の名を呼んでいる。
「あの、あなたは?」
「もう、さっきから何言ってるの。ふざけてないでさっさとシャワー浴びてきて。」
雰囲気から察するに、かなり親しい間柄なのか。まさか僕の彼女なのか?
いやいや、そんな訳が無い。
僕は困惑しながらシャワーを浴び、その知らない女性が作った朝食に手を付ける。
目玉焼きにはマヨネーズとケチャップがかけてある。何故僕の好みを知っている。キツネ、いやタヌキ。
「はい。コーヒー。」と僕の前にコーヒーを置いてくれた。
「どうしたの?ぼんやりして。なんかずっと変だよ。」
女性に免疫の無い僕は緊張してしまう。
「えっと、僕、昨日頭打ったりとかしてたかな?」
「知らないわよ。何?本当に私の事が誰だか分からない感じで行くわけ?」
ああ。本当に君は誰なんだ?
「はいはい。付き合ってあげるわよ。ここは私たちが去年から住んでいるマンションで、あなたは塚本ヒロシ28歳、私の旦那。まだまだピチピチ26歳美人妻の私は朱美。今年で結婚2年目に突入ですわよ。これでよろしくて?」
この女性は僕の妻だったのか。想像の上を行ってしまった。ある意味女スパイの方が話は単純だった。
「もういいでしょ。早くしないと遅刻するわよ。困ったパパでちゅねー。」
朱美と名乗る女性は自分のお腹に向かってそう話しかけた。
ふむ。どうやら僕には子供までいるらしい。
会社に向かいながら一体何が起きているのだと考えた。
僕は朱美の事を知らない。出会った事すらない。その彼女が今朝から僕の妻として僕の家に居る。
昨日の事を思い出そうとしてもまるで思い出せない。と言うかここ最近の記憶事態何故かぼやけてはっきりしない。
昼休みに同僚の田中に朱美の事をそれとなく聞いてみた。
「朱美さんがどうしたって?塚本の奥さんだろ?いや、ホント可愛いよなあ。お前が羨ましいよ。どうした喧嘩でもしたか?」
「いや、別に。」そうだ電話だ。
僕は携帯電話を取り出し履歴を確かめた。そこには現れたばかりの朱美とのメールのやり取りが残されていた。「そんな馬鹿な。」
写真のフォルダを開くと朱美とのデートや結婚式、新婚旅行の写真が残されていた。
「なんだよ。ラブラブ見せつけてくれるな。」田中が僕の携帯を横から覗き込み言って来た。
僕にしてみれば他人のアルバムを覗いている気分だ。
更なる問題は、朱美の顔は僕の好みのど真ん中という事だ。普通に考えればとても手の届かない高嶺の花の様な女性だ。まして結婚なんて。夢のまた夢。
朝起きれば思い描いていた理想的な女性と生活している。
それこそ童貞の初夢みたいじゃないか。
自慢じゃないが僕は今の今までまともに女性とお付き合いを出来た事が無い。
吾輩はもちろん童貞である。だから、この夢を見る権利があるにはある。
でも、もしここが夢の中では無いとすると、逆に昨日までが夢の中に居たという事になるのか?
もう訳が分からない。考えようとしても宇宙の向こう側を覗くかのように思考が歪む。
とりあえず仕事に戻ろう。
家に帰ると美人な奥さんが待っていてくれている。そう思うと無条件に気持ちがついつい浮ついてしまう。しかも子供まで。
ん、子供?
待てよ、という事は、僕は童貞では無いのか?
子供が出来ているという事は、朱美と子作り為る行為をしているはずだ。
夢にまで見た童貞卒業をあんな美人な奥さんで果たしていたなんて僕も捨てたものじゃないな。だが、残念なことに記憶が全く無い。
仕事が終わり急ぎ家に帰ると朱美は夕食の支度をしていた。
本当に朱美と僕はしたのか?
朱美の顔を見ると緊張で固まってしまう。無理も無い。精神的には童貞のままなのだから。女性とまともに話した事も数えるほどしか無い。
それが急転直下一つ屋根の下で暮らす事になるなんて。
本当に朱美と僕はしたのか?
僕はまだ君の事を知らない。
いや、こうなったからには、僕は朱美とこの生まれてくる子供を大切にするしかない。
その為にはまず、まともに会話が出来るようになる所から始めよう。
僕にとってはいきなりフランス料理のフルコースを出されたようなものだ。僕はまだテーブルマナーすらろくに分かっていない。もっと言えば僕は箸の持ち方すら覚束無い段階だ。
「ちょっと本屋に行ってくる。」と言い僕は外に出た。
でも、結婚までしている訳だから何も今更入門書から始めなくても何とかなるか。いや、何事も基本は大事だ。
朱美に釣り合う男性にならなければ朱美を食べる事は出来ない。
順序は逆になってしまったが口説き始めから仮想しなければ。
僕は手当たり次第恋愛入門書を購入し、デート編、本番偏と少しずつ段階をあげながら勉強していった。今までは恋愛に対してゴールが遠く霞んでいたせいで半ば諦めていたが、
目標が目の前にあると人はこんなにも必死になれるものなのだなと、我ながら感心した。
その頃、僕はもう完全に朱美に恋をしていた。
そして自分の中では3つ星とまでは言わないでも、普通のレストランのテーブルマナーくらいは上手くこなせるようになったと思う。
そして、記憶がフラッシュバックした。
そうだ、僕はあまりにもモテない続きの退屈な人生に嫌気がさして自殺を試みたのだ。生まれ変わりを望んで睡眠薬を一気飲みした。
結果、僕は無事転生を果たし朱美を手に入れたのだ。
「神様ありがとうございます。」
「いや、ありがとうと言われても・・・。」
そして僕は目を覚ました。
見慣れない天井と何人かのスタッフらしき人の姿がぼやけた視界に入る。
「塚本さん意識回復しました。先生を呼んできます。」
どうやら僕は病院にいるらしい。聞けば1週間ほど意識が戻らなかったらしい。
「なんだよクソ、やっぱり夢オチか。」
自殺すら失敗した無様な童貞の見る夢。でも本当に良い夢だった。
夢から覚めたばかりの浮遊感と喪失感が同時に僕を包んだ。
「塚本さん。おかげんどうですか?」看護師さんが僕に尋ねてくる。
「いや、まあ、・・。」
僕は絶句した。
「どうかしました?」
「い、いや大丈夫です!」看護師さんは不思議そうに小さく笑って病室から出て行った。
看護師さんの顔は朱美に瓜一つだった。
どういう事だ?まだ夢の中なのか?正夢なのか、なんなのか
「君は誰だ?」
いや、どうでもいい。
僕はゆっくりと体を起こし、あの夢の生活を何としてでも現実にしようと思った。
もう大丈夫。とりあえずテーブルマナーだけは勉強済みだ