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soeji
「わたし」はどこにあるのか
はじめに
「非二元や仏教に興味を持っている」
と紹介しているので、それに関連するような記事を書きたいと思った。
考えてもわからないことかもしれないけど、それでも頭の中でブスブスと燻らせておくよりはいい気がする。
だから自分のために書いたような記事になってしまった。
今日考えたこと
「私」って誰だ?
私とは誰なんだろう。不二元とか仏教の本では
「自分など存在しない」という話が多い。
やっぱり存在しなさそうだと思うのだけど、でも「私の存在」をまだ疑えない。
風景
例えば風景を見た時、
それを「見ている」のは自分だろうか。
でも風景は結局、目に飛び込んでくる光の強弱によってできているのだと思う。
だから見ているというよりは「見える」の方が表現としては近いはず。
特に美しい景色を見ている時なんかは
「見ている」という意識は別に感じられない。
景色があるだけで何も思わないし、景色とどこかで一体化しているのかも知れない。
しかしこういった考察は、景色を見てからひと息を着いた後に考えることだ。
景色を見ている間はあんまり物事を考えられないから。
このように
上のように、何かに対しての反応を行うのが
「自分」というやつなのかもしれない。
可能性
「自分」は色々なことに結論をつけたがる
「自分」は感情や言語化のおおもと
「自分」は社会によって作られる
わからないこと
社会的な自分が作られる前の
「自分」は存在したのか?