駅遠の空き家の使い道を考える② ~祖母が失った下宿~
父は高次脳機能障害と認知機能の低下から言葉が浮かばなくて、言いたいことがスッと伝わりません。
話す機会を増やせばリハビリになります。実家からアルバムを持ち帰った際、以前に視覚心理の講義で学んだ「回想法」を思い出しました。
「回想法」は、懐かしい映像などを見て、自分の記憶を呼び起こして会話することで脳を活性化させる心理療法で、認知症の進行予防につながる可能性があります。
父にアルバムを見せると、幼少期の写真、特に玄関先で撮ったらしき家族写真に反応し、固有名詞を出してとつとつと昔話を始めました。父は元気だった頃は生家の昔話をしない人だったので、私も初めて聞く話で興味深いものでした。
祖母が下宿の女将だったという話は、母からも聞いていました。母は祖母と折り合いが悪く、「何人もの女中を顎で使っていたから我がままで、私のことも小間使いとしか思っていないのよ」と言っていて、子供の私としては、親の言うことですから鵜呑みにしていました。
ところが父は「世話好きな情の深い人で、大変な苦労をして家族を支えたんだよ」と言います。今の父が事実と違う話をするとは考えられませんし、祖母の部屋から見つかった昔の資料とも矛盾しない話でした。
区役所勤めの祖父と看護士だった祖母は、結婚して牛込区(今の新宿区)若松町の借地に新居を構えました。3人の女児が生まれた後に待望の男児、私の父が生まれたのを機に、昭和11年(1936年)に自宅を大増築して下宿「有信館」を始めました。当時の牛込区の古地図を見ると、その界隈には下宿が点在しているので、上京して来る人の受け皿として下宿を始めるのが妥当だったのでしょう。
祖父が公務員だったため副業は出来なかったのか、建築許可証には下宿の戸主は祖母となっています。また、平面図が添付してあり、1階には家族の居室以外に10部屋、2階には7部屋あったことが分かります。
下宿は繁盛しました。祖母は女中の「フサ」と2人で毎日10数人の下宿人と家族のご飯を作り、掃除・洗濯をし、親身になって世話をしました。特に中学卒業後に諫早から上京して通信員として働く少年「ハジメ」は我が子同然に扱われ、父はハジメに可愛がられていました。東京理科大学の学生もいて、父は勉強を教わっていたそうです。
ところが間もなく太平洋戦争が始まりました。敷地内に防空壕を掘って空襲の度に皆で逃げ込みました。やがて米軍が焼夷弾を落とすようになり、近くに落ちて火が出た時は防空壕では助からないので逃げ、神宮前の東郷神社まで走りました。
その時は戦火を免れたものの、いつ命を落とすか分からない戦況になっていました。学徒動員されていた上の姉2人は家に残らざるを得ませんでしたが、祖母が手配して小学生だった父とすぐ上の姉は箱根に疎開することになり、最後に玄関先で、ハジメも一緒に家族写真を撮りました。
この写真の後、20年後に父がアメリカに赴任する際に羽田空港に見送りに行って撮った家族写真まで、1枚も家族写真がありません。「家族写真どころじゃなかったんだ」と父は言います。
昭和45年(1945年)3月10日の東京大空襲で祖母の下宿は焼失しました。下宿人は散り散りになり、ハジメは帰郷しました。祖父は、戦地に赴いている弟の阿佐ヶ谷の家に居候し、祖母は子供達を連れて郷里の甲府へ疎開し、親戚宅を転々としました。甲府大空襲にも遭い、荷物を積んだ荷車を皆で押して逃げたそうです。
戦争が終わって東京に戻りましたが、下宿の再建など叶わず、借金だけが残りました。祖父の弟が戦死し、残された妻子が実家に戻ったので、一家は空いた阿佐ヶ谷の家を借り受けました。祖母は当初、着物を売っては食料を調達していましたが、ベビーブームを機に家に看板を掲げ、助産婦として働きながら一家を支えました。姉達も女学校を出ると働きに出て、長姉は結婚するまでは給料のすべてを家に入れました。
跡取りの父だけは特別扱いで、英語塾に通い、浪人して私立大学に行かせてもらいました。父が会社の命でアメリカでMBAを取得して帰国する頃には借金も返し終わっていて、祖母は縁談を持ち掛けました。そして父と母の結婚が決まると、多摩地区に安く分譲されていた土地を購入して、二世帯住宅を建てました。
祖母は、この家を貸すことをどう思うでしょう。下宿の平面図を戦火の中で持ち出して亡くなるまで保管していたことを考えると、下宿というわけにはいきませんが、近しいシェアハウスという形で「有信館アネックス」なんて、だめでしょうか。同じように失敗することを危惧して反対するでしょうか、それとも賛成するでしょうか。祖母の遺影は心なしかにこやかに見えます。