何ならnoteもXも、誰にも読まれない方が寧ろ自分には幸福であるのかもしれない
他人をバカにして生きて来た人間の末路
実際noteに記事なんか書くからキツいのであって、そういう事もせずに昼間っから寝ていてもいいのだ。
しかし、時間が余るとnoteを書いてしまう。
或いは、noteにでもXにでも結局書いてしまうこの習性は何なのだろう。
自分が文章を書く事を志したのは、ある意味自分は頭が良いと思っていた為だ。
と言うか、自分は例えば運動神経がいいとか容姿がいいとかそういう事で生きて行く自信はまずなかった。
そう考えると最終的に残るのは、自分は頭が良いというプライドだけだった。
それにしてもどうして自分は頭が良いと思い込んでいたのだろうか。
それは結局、比較的な問題だ。
自分と比較して周囲の人間がバカに見えたというのが正直な判断だった。
それは、他人がバカに見えるイコール自分は頭が良いという認識だった。
世界で5本の指に入る知性?
今、特に周囲の人間をバカであるとは思わない。
自分は、自分より頭が良い人が幾らでもいる事を知っている。
しかし、自分が文章を書き始めた当初はそう思わなかったのだ。
自分は世界で5本の指に入るくらい頭が良いと思い込んでいた。
これは冗談ではなく、当時(21歳、1998年)は本当にそう思っていたのだ。
その時はまだ統合失調症と診断されていなかったし、今思うとただの若気の至りだったのだろうけど。
自分は文章を書き始めた当時、ある意味怖いものなんか何もなかったのだ。
無根拠に自分は、自分が最強だと思い込んでいた。
或いは、若い時ってある程度自分が最強だと思っていたりするものなのではないのだろうか。
それは或いは、自分が男だったからかもしれない。
自分はそこらの理屈っぽい大人達に連戦連勝していたし、結局若いという特権があった。
ただ権威があるものに吠えて噛み付いてきた
自分の周囲には何故か、早稲田とか慶應とか東大とかを出てる人もいた。
しかし、自分は当然そういう人の言う事も聞かなかった。
何故なら、自分にはそういう人達がバカに見えていた為だ。
当時、ただ自分にはそう見えていた。
しかし、本当に当時世界で5本の指に入る知性だったのだとして、自分にはそれを証明するものは何もなかった。
自分はその事に気か付かなかったのだ。
つまり、自分はただ無根拠に最強だった。
自分は本当に、他の人がその証明に拘っていた事にも気が付かなかった。
自分は頭が良いというのならば、当然その結果は残さなければならない。
そして、何時からか必然的に自分は追い詰められて行った。
自分はその5年後、26歳の時に統合失調症と診断された。
結局、そこから自分は精神障害者として生きて行く事になった。
しかし、ぶっちゃけその5年が、或いはそれプラスその前の2年ぐらいまでが自分にとっては人生で最高の時間だったのではないかと今でも思うのだが。