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スキが多く付いている記事イコール良い記事、とは思わない
主観的な著述と、客観的なスキ
自分が書いた記事であるのだとしても、何でこの記事にスキが付いたんだろうと思う事がある。
逆に、本当に思った事を書いたのに全然反響がない時もある。
スキが付くというのは著者がそう思っているというよりも、読者がそう思っているという事だ。
著者には結局、スキが付くか付かないか分からない。
この場合、重要な事は客観的な評価だ。
著者の実感で決まっている訳ではない。
しかし、書いているのは自分である。
だから、客観的な評価を得る前に必然的に主観的な著述という行為がある事になる。
著述を通さなければ、まずその記事自体が存在しない。
堂々巡り
特に今日は本気で書いて別の日には手を抜いて書いた、という訳でもない。
それなのに、スキがいまいち付かない時がある。
そう考えると結局、著者の実感と読者の評価は一致しない。
そこでも重要なのは、著者が毎回本気で書くという事実ではなく客観的にどう読まれたかだ。
結局著者が本気で書いたとかそういう気持ちの問題は、読者がどう読んだかという事実とは関係がない。
しかし、そうなると著者の実感とは何であるのだろうか?
著者は大概その実感に基づいて書いている。
実感以外に頼るものはないだろうし。
例えばどこかからデータを持ってくるのだとしても、そのデータも著者の主観により編集されてしまう。
著者と読者の逆転
結局、どう考えても著者の立場というのは弱い立場だ。
その記事の良し悪しは結局読者が決めるのである。
著述においては読者に絶対的な権力があり著者には特に権力はないが、それでも自分を初めとして記事を書く人はいる。
読者に絶対的な権利があるのに、なぜ著者になろうとする人がいるのだろうか?
基本的に、読者が金を払うのならばその関係はある程度平等な関係に落ち着くだろう。
しかし、noteに記事を公開しても基本的に金銭的な見返りはない。
少なくとも、今のところ自分は金銭的な見返りを得ていない。
それでは何故、自分は記事を書いているのだろうか。
結局、それに関しても特に結論はないのだ。
或いはそれでも一つだけ思う事があるのだすれば、それは自分が読者の立場にいる時だろう。
自分が著者の立場を捨てて読者の立場に立った時に、自分は他人が書いた文章をスキの数では判断しない。
スキの数がゼロであるのだとしても何が書かれているのだろうかという興味を持つ事はある。
寧ろ、捻くれ者の自分はスキがあまり付いていない記事から読んで行く場合が多い。