悪意の活用
文学と悪意
という訳なんだけど、ぶっちゃけ書く事がなくなって来た。
なので、こういう時は寧ろ本心を書くかもしれない。
書く事がある時には用意しておいた事を書けるけど、今日は訳の分からない事を書きそうだ。
とりあえず、自分は悪意が重要だと思っている。
他人に対する悪意だ。
と言うか、日本人には良い人が多いので基本的に他人に対する悪意は持たないかもしれないけど、自分は日本人だけど特に良い人じゃないので他人に対する悪意を持って生きる事は重要だと思っている。
例えば、こうして文章を書くにしても悪意は重要だ。
自分だけが書いている訳じゃないので。
自分だけが書いているなら呑気に書く事もできるかもしれない。
しかし、実際にはそういう訳には行かない。
つまり、他人を蹴落とす悪意が重要である。
徹頭徹尾
それは結局、世の中にはバカな人がいるからそういう人に対する対策を立てる必要があるという事だ。
バカに対する対策を立てずに善意を通す事は難しい。
世の中には正義とか通らない時があって、正義とか通らない人がいるのだ。
なので、初めから悪意を持っていなければ自分の言いたい事を言う事も難しい。
基本的には、初めから悪意を貫く必要がある。
世の中には正しい事をやっているのに通らないと言って怒る人がいるが、それは当たり前である。
大人になってそんな事も知らない人がいるという事が、寧ろ自分には不思議である。
重要な事は徹頭徹尾現実であり、その現実を無視して生きて行く事はできない。
現実的に正義が通らないのならば、或いは悪意に対して悪意で対抗する必要がある。
基本的に、話し合いなんて無駄である。
単純に、自分は自分を信じている
そういうところで相変わらず綺麗事とかを言っている人は、問答無用で蹴落とされて行くだけだ。
そして、自分はそういうところで「信じて欲しい」と言う人が苦手である。
そんなものは誰も信じない。
皆、自分を信じて生きているのだから他人の事なんか信じない。
そもそも、自分は前向きな人が苦手だ。
そういう人は現実を見ていない。
現実に生きているのに現実を見ないという事は、シニにたいという事なのだろう。
シニたいと思うのは勝手だが、一々言っている事がおかしいのはイラっと来る。
前向き思考とか、何であんなに支持されるのかね。
自分はそもそも多数決的な考え方は苦手なんだ。
そういう訳で、自分は善意よりも悪意を信じている。
ある意味、善意にも対抗して。