労働と文学と統合失調症
もう大人なので
何か自分が何時も書いている事はその3つに集約されている気がする。
つまり、労働と文学と統合失調症だ。
何故かは分からないけど、何時もそんな事について書いている。
他にも興味がある事はあるけど、それらは後回しだ。
物事には優先順位というものがあって結局時間がなければそれらは切って捨てられる。
何故、自分は労働とか文学に固執するのか。
とりあえず統合失調症は持病だから仕方がない。
労働は生活の為という事はあるが、ある程度大人になったらやらなければいけないものだという認識でやっている。
だから、子供だったらやらないけど大人だからやっている。
文学への執着
それで統合失調症とか労働にはそういう理由があるけど、文学にはどういう理由があるのだろうか。
という事なのだが、結局自分は文学は個人的な執着でやっている。
なので、文学は労働とか統合失調症と比較して無根拠かもしれない。
意味なく文学に傾倒していると思われても仕方がない。
労働をすれば金がもらえるし、統合失調症は持病だから仕方がない。
しかし、文学は無根拠だ。
という事になるのだろうか?
ただ、実際こうして書いている事自体が文学なので、労働も統合失調症も文学に包摂されている概念であるという事にはならないだろうか。
表現のベース
つまり、自分の場合表現のベースが文学だという事だ。
基本的に自分は、文章を書くか或いは話して物事を表現する。
確かに文学は無根拠な執着だが、根本的に人間は社会的な生き物なので他人にものを伝える事は重要だ。
そう考えれば、文学にも根拠がある事になるのだろう。
話を元に戻すと、労働は大概説明しなくても理解される。
統合失調症は、罹患してしまったのだから仕方がない。
そして、それらを表現するベースとして文学だ。
という訳で、その3つのものの根拠はそういう説明になるのだろう。
存在の証明
ある意味それは文学ではなくて、音楽でも絵画でも或いは野球でも表現は可能だ。
それがその人の存在証明であるのだろう。
自分には文章を書く事は自分が生きている証明みたいなもので、そういう意味では「まだ生きてますよ」とかそういう事を書いているのかもしれない。
そう考えると、結局は人間は社会的な生き物だからという事になるのだろう。
労働も文学も統合失調症も結局は他人との関係の中で生まれてくる。
最終的には自分は社会の中で生きているからという事になる。
だから、それらの3つの問題への拘りは自分の拘りであると同時に、他人の拘りであるとも言えるのかもしれない。