見出し画像

これがわたしの喜びであり、時に苦しめる手料理というもの


すっかり年も明け、特に予定が入ってなかった3連休の初日。
いよいよ次の週には長女の高校受験が控えている。
夫は土曜半日出勤(と言っても帰宅は15時過ぎだった)、4人の子どもを抱えて騒がしい冬休みの再来だ。
大量の洗濯物を終えた後、午前中に下2人の娘を連れて買い出しに出かけた。あれもこれもとカゴは2つに、1万円強。家族6人分の食材の買い出し、恐ろしい。

胃腸もお疲れ気味なところで、いつも通りの地味めな我が家の料理が恋しくなってきた。年末は夫の仕事終わりが31日!だったので、大掃除も特別な料理もそこそこにして、穏やかな時間を過ごすことにした。お正月は近年にないくらいゆっくり休めて、充電された。さぁ作るぞ!って気持ちに自然となった。

1/7は七草粥もとい三草粥 庭のハコベ入り
久しぶりに生米からのお粥
疲れた胃に優しい


家では少し前から子どもの遊び用に使っていた小豆と黒豆を炊いている最中。
(色んな種類の豆を混ぜてタッパーに入れて、感触を楽しむの良いよ!と友人に聞いてやってみた)

タッパーの中で感触を楽しんだり
おままごとの材料になったり
豆でこんなに可愛いものを作ったり


寒い連休だからおでんを仕込みたい。今日の夜には味しみが間に合わないから、夜は鍋にしよう。みんなが好きな鶏団子鍋だな。
そういえば、家にあるマンバ(地元野菜 高菜の一種 葉っぱは大きくてアクが強い)も下茹でしておかないと。
まるで年の瀬なみの平行料理のはじまりはじまり。



薪ストーブの上で柔らかくなった小豆に砂糖を加えてぜんざいを仕上げ、茹で餅と一緒に3時のおやつに。

おでんは寸胴で大量に作って3日くらいかけて食べる。今回は、大きめ大根1本半、こんにゃく4丁、卵16個、牛スジ、手羽元、豆腐にちくわ、平天、ごぼ天など。大根を切ったり、こんにゃくに飾り包丁を入れるのは次女(9)にヘルプを頼む。ゆで卵の皮むきは、帰宅した夫と末っ子3女(4)がしてくれた。
ガス台で下茹でした具材を加えながら、出汁の味を調整して、ほとんどの材料が入ったら、ストーブへ移動。ことことタイム。


寸胴でまとめて作り、1食分を土鍋で温めて食卓へ
寸胴も土鍋も保温力が高く、美味しくできる!


菜っ葉を茹で水に晒し、黒豆の火入れ作業を進めつつ、子どもたちと紅白の録画をVaundyくんあたりから観なおして母熱唱。米津くん、風くん、もう大好き。若い才能が素晴らしすぎる。エネルギー吸収。

夕方、正月飾りを近所の神社まで持っていくおさんぽ。
外の空気を吸って一休みしてから、夕ご飯を作り始める。

今日も美しい空いただきました!


鍋には豚しゃぶ肉を放り込みたいところだが、女子2人は肉の切り身を好まず食べない。鶏ミンチの団子なら食べてくれることが分かったので、最近よく作るようになった。ミンチ肉に長ネギとすりおろし生姜、卵と片栗粉を混ぜるだけなので、簡単だし経済的でもある。何回も作っていると、軽く握った左手からブニュっと団子的なものが出せるようになってきた。(びっくり人間ではなく、人型団子製造機)
初めてブニュを試した時は、これはわたしには無理や…ってなったけど、ほんのりでもチャレンジし続ければできるようになるもんだ。これからもっと上手になりそうな気がする。


この日は、黒豆の仕上げまでは手が回らず、翌日へまわす。
この記事を書いている理由は実はこの黒豆なのだが。


ここまで読んでくださった方には伝わったかと思うが、料理は好きな方だ。多分美味しいものが好きだからだと思う。みんなが美味しいと喜んでくれるのも単純に嬉しい。

それに、ひとつ気づいたことがある。
料理は同時平行作業の連続だ。シングルタスクの中にあるザ・マルチタスク。
ひとつの料理を作るというのは、材料準備→切る→和えるor焼く、炒める、揚げるor茹でる、煮るなど→調味、というシンプルな1つの流れである。
順序通り工程をふめば、ちゃんと出来上がる。
しかし実際は、ひとつだけでは献立にならないので、間で米をセットしたり、汁物や副菜を一品二品作ったりする。
そうなると、急に事態が複雑になり、段取りが必要になってくる。
青菜を茹でる湯を沸かす間に材料を切る、とか、煮物を炊いている間に和え物を作る、とか、効率よく作業することを考えないといけない。
これを工夫しないと、調理の時間が延々と続くからだ。
なんか、すごくマルチタスク的。
そしてこの同時進行感が、わたしは嫌いじゃないみたい。深く考える訳ではないのだが、頭を使いながら作業するのが好きなのかも。
夫は湯を沸かす間、鍋の前で平然と立っていたりするが、わたしには無理。
え?その時間なに?と思ってしまう。

だからと言って、いつもスマートにこなせるわけでもないし、調理時間は長めな方と思う。昨日も完全に段取りを間違えて、チンした玉ねぎのみじん切りを冷ますために、わざわざ戸外までザルを運んだ女だ。(そうです。ハンバーグです)

それは料理だけに限らず、いろんな所で感じる自分の意識の分散感。
本の読み方もそのひとつで、同時に何冊も抱えながら読むのが好き。
ほぼ同時に読了することもあるし、全くバラバラなこともある。
noteの書き方もそう。意識があっちこっちに飛んでいって、話のまとまらなさは自分でもこわいくらい。そうやって途中にしている記事もいくつかある。

だけどたまに、バチっときまる日がある。
それがまさに平行料理の3連休初日だ。
鏡開きのぜんざい、連休に夕飯作りを休むための大量のおでん仕込みと、でかでか菜っ葉の下茹で、そして鶏つみれ鍋が全ていい流れで仕上がり上機嫌。やってやった感で心が満たされる。全てが混沌としている状態が、全て収まるところに収まる感覚とでも言おうか。


そして翌日、最後に1日遅れで仕上がった黒豆。
普段の料理は基本あまり計量などせず、五感を使い味見をしながら作ることが多いのだが、
黒豆は何年やってもなかなか思うように炊けないので、しっかり一流のレシピ通りに作ってみた。細かい工程もその理由を添えてくれていたので、新しい発見と理解を深めつつ作業できて楽しかった。
遊びに使った豆とあって、見た目はそこそこだったけれど、そのお味たるや…
近年、黒豆をあまり喜ばなかった子どもたちが大絶賛。
ちょっと誰かに贈りたいくらいおいしい。
長女は毎日弁当に入っているとオヤツ感があって嬉しい、と言う。
今年の年末は是非、丹波黒豆(←黒豆のいいやつ)で作ろう!と思っている。

手料理にこだわって15年。
子どもたちが小さい頃は、気張りすぎて疲れることも多々あったけれど、毎日食べてくれる人がいるから作り続けられる。
私にとっては、手抜きしよう、といくら言われても、なかなかできない部分でもあった。
買い物から始まるひとつひとつの材料が、献立になり、食卓に並ぶ、その小さな達成感の積み重ね。
割とメニューはルーティンではあるものの、続けているからできることが増えて、軽く自慢できるほどの腕前にはなっていると思う。
今は家族分を賄うだけで精一杯なのだが、この腕もいつか何かのかたちで社会に還元出来たら自分の喜びとなるのかも、とふと思う。
食べることは心の栄養になる。
私自身がそれを与えられてきたのだと思った。

与えられるものこそ与えられたもの ありがとうって胸をはろう

Fujii Kaze


本日高校受験①の娘弁当
朝7時前に出るので、副菜以外は前日仕込み


いいなと思ったら応援しよう!