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徒然『受け継ぐべきもの』

―女の子は父親に似る―と、一般的に言われているように、おそらく私は父親似だ。顔立ちはもちろん、食べものの嗜好、考え方や行動も似ているような気がする。お酒が好きなところ、就職で東京に出たこと、新たに挑戦しようとする姿勢…本当にそっくりだ。思春期の頃は、酔っ払ってからむ父が嫌だったけれど、今では私も似たようなものだ。
 一方、母は子どもの目から見ても可愛らしい顔立ちで、手先も器用でよく編み物や縫い物をしていた。私が小学校高学年になった頃、アートフラワーにのめり込み、近所の奥さん達に教えるまでになっていた。料理も上手で、子どもが好きで、優しく穏やかで、私と兄は大切に伸びやかに育てられた。あまり器用ではない私は、なんだか母には似てないなぁとずっと思っていた。
 私が二歳のころ、母は病気で一つ腎臓を切除していた。だからお腹から背中にかけて大きな傷があった。私は物心ついた頃からその傷を見て育ったので、気に留めたこともなかった。十歳の頃、母が胆石で入院したが、手術はせず、痛みを散らして帰ってきた。今、女性として思いを馳せると、あの傷は母の悲しみそのものだ。
 大学四年生のとき、一人暮らしに憧れ、就職を東京に求め、私は生まれ育った土地を離れる決断をした。その頃の母の口癖は、女性も結婚して、子どもを産んでも働く方がいい、だったから、私の選択にものすごく葛藤していた。
母のお父さんは早く亡くなり、短大への進学を諦め、就職し、お見合い結婚で専業主婦になった。母の人生に悔いがあるとすれば、大学に行けなかったことや働き続けられなかったことだったのだろう。
 旅立ちが近くなったある夜、母は父の晩酌に付き合って、慣れないお酒を飲んだようだった。二階の私の部屋まで聞こえるような大きな声で、私の名前を何度も何度も、半分泣き声で呼んでいた。女性として東京に行く私を応援しながらも、母として離れていく娘への寂しさに耐えきれなかったのだろう。今でもその声を思い出すことがある。私の名前があれほどまでに、寂しく呼ばれたことは未だかつてないから。
 就職して、三年経ったころ、住んでいた会社の寮に父から電話があった。母が入院するという知らせだった。その日から一年も経たずに母が亡くなってしまうなんて、思いもしなかった。膵臓がんではなかったことに父と手を取り合って喜んだのもつかの間、生検の傷から膵液が漏れて、腸閉塞になり、再び手術することになった。手術室に入った母は、ガラス越しに見えるベットの上で目を覆って泣いていた。お腹をまた切ることになる辛さが痛いほど伝わってきた。
 凄まじい闘病の末、母は五四歳で亡くなった。私の結婚式まであと数か月を残して。枕元には私と撮った写真と神戸のガイドブックが残されていた。何カ所か折られたページ。私の住む街に遊びに行くことを心の支えにしていたのかと思うとせつなく、泣けた。
 初盆、一周忌、三回忌…と時間が過ぎ、法要は、亡くなった人への悲しみを少しずつ薄くしてくれる大事なけじめなのだ、ということも私ははじめて体感していった。同じ背格好の女性や友達の結婚式で泣いてる母親を見て、涙することがなくなってきたのは、七回忌が済んだ頃だ。
 その頃、私は長男を身ごもり、母がいないことを改めて思い知らされた。兄や私がお腹にいたとき、つわりがひどかったのか、毎日何を思っていたのか、出産は安産だったのか、私は母に似ているところが少しでもあったのか、、、聞いたこともなく、今や知る術もない。母がいなくて涙することはもう少なくなっていたが、私の寂しさは消えることはなかった。
 それから数年経ち、私も三兄弟のたくましい母になっていた頃、兄夫婦が神戸に遊びに来た。ひとしきり賑やかに過ごし、帰る間際だったろうか。義姉さんが、わたしのところに来てこっそりこう告げた。

 「ねぇ、お皿の盛り付け方がお母さんと一緒ね、そっくり。昔を思い出したわ」

義姉のその言葉は、母が言ってくれたようで嬉しくて泣きそうになった。

『そうか、形あるものだけが、受け継ぐべきものではないんだ。私の中に母が生きてるー』そう感じた一瞬だった。


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