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”私的”『太平洋の女王』史(後編)
後編・最後です。
必ず、故郷へ。
太平洋戦争開戦時、世界第三位の規模といわれた日本商船隊はほぼ壊滅した。
大型の商船は、『氷川丸』以外に大阪商船の『高砂丸』(台湾航路)、関釜連絡船の『興安丸』級2隻など、両手に数えて収まるかどうかしか生き残らなかった。
太平洋航路に絞って言うと、戦争が終わったからすぐに復活というわけにはいかなかった。
中国大陸、東南アジア、(旧)内南洋地域などに数多の日本人が取り残されていたから。
”内南洋”とは、現在の北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦にあたり、国際連盟から委任統治を託されていた地域。
彼ら全員を日本に連れ戻さなければならない。
『氷川丸』も復員船の一隻として活動し、1947年1月にその任を解かれる。2年近くも復員船としての任を務めたが、それだけ多くの日本人が太平洋・東南アジア地域に散らばっていたという証左だろう。
そして、彼の地で永遠に帰って来れなかった日本人も数え切れない。
『女王』の復活
復員船の任を解かれても、『氷川丸』はすぐに太平洋航路に復帰できなかった。
古巣のシアトル航路に復帰できたのは1953年7月だった。
一方で、『氷川丸』に先んじて太平洋航路に復帰した客船がいる。
1948年、アメリカン・プレジデント・ラインが、往年のサンフランシスコ・ロサンゼルス・ホノルル・マニラなどを結ぶ太平洋航路に、2隻の客船を復帰させたのだ。
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City of Vancouver, Copyrighted free use, via Wikimedia Commons
『プレジデント・クリーブランド』『プレジデント・ウィルソン』の姉妹である。
とりわけ『ウィルソン』には、1951年には三島由紀夫、1953年にはエリザベスの戴冠式に出席する当時皇太子であった上皇陛下が御乗船されるなど、数多くの日本人も利用した。
それにしても・・・、
彼女たち2隻は、その生い立ちが興味深い。
そもそも・・・、
元はアメリカン・プレジデント・ラインが発注して建造したフネではない。
米国海事委員会が軍隊輸送船として計画した『P2』級。
大量の兵士を運びつつ、戦後は客船に転用しやすい設計がされていた。
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パッと見、普通の客船に見える。
総トン数が17,001トン、速力19ノットと、大型客船として必要十分なスペックである。
建造造船所によってタイプが2種類あるが、合計19隻完成している。
空母などの大型艦艇にばかり目がいきがちだが、それに加えて、兵員を輸送するための輸送船をわざわざ大量に整備し、かつ、戦後の民間での使用も見据えた設計にしているあたりが、アメリカの底知れぬ強大な国力を見せつけられているよう。
『プレジデント・クリーブランド』『ウィルソン』は、米国海事委員会が軍隊輸送船として建造した、P2級の最後の2隻。
しかし、建造途中で戦争の勝利が見えだしたので「もうこれ以上必要ない」と、ほぼ完成に近い状態で工事を中断していた。
客船として完成させるにあたって、上部構造物を一旦取り払い、改めて客船として相応しい新しい居住区などを造り直した。
戦後に建造された客船のトレンドで、いかにも煌びやかな、ゴテゴテした内装ではなかった。
むしろ高級なビジネスホテルに居るかのような、タキシードではなく、スーツが似合うような雰囲気だったようだ。
最後の”夢”
一方、日本郵船においては、『氷川丸』が一隻気を吐いているところで、流石に船齢が30年になろうとしていた。
この年齢になると、当然建造費はペイしている。しかし、それと入れ替わるように維持費が無視できない足枷となってくる。
『氷川丸』の場合は、太平洋戦争での酷使がたたり、実際の船齢以上に老朽化が進んでいる。
少なくとも1953年終わり頃に「観光事業審議会」において2隻の大型客船の必要性が提起され、内閣総理大臣に提出されている。
事態が動き始めたのは、6年後の1959年。
この年5月に開催された第55次IOC総会において、第18回オリンピック競技大会の開催地が決定した。
開催地はそう・・・、
東京である。
新たな客船を建造できる可能性が高まったことを踏まえ、日本郵船でも本格的な動きに取りかかった。
日本郵船が計画した豪華客船のあらましは、総トン数33,400トン、乗客定員は一等200名、ツーリスト1,000名という、戦前に計画した『橿原丸』級すらも上回る規模だった。
動きを見せたのは日本郵船だけではない。
日本船主協会、横浜市会、さらにはホノルルとロサンゼルスにおける日本商工会議所の支部からも様々な働きかけが為されるようになった。
それら様々な動きが実り、ついに当時の金額にして23億7500万円の国家補助が組み込まれるまでになった。
宿願の豪華客船建造はいよいよ目前となっていた。
1959年9月26日18時過ぎ。
台風第15号が潮岬付近に上陸した。
現在に至るまで、上陸時の勢力としては最強の記録を維持し続けているこの台風は、『伊勢湾台風』としての名で知られる。
この台風は、当時の日本列島各地に甚大な被害をもたらした。
日本郵船も例外ではなかった。
悲願の豪華客船建造構想は、吹き飛んだ。
直接的な死者だけでも4,697名。
それだけにとどまらず数多の建物家屋が破壊され、各種インフラも大被害を受けた。
何よりも、その復興と今後への対策が急務である。
豪華客船よりも、人の命が優先されるのは当然だろう。
先に計上された補助は全て、伊勢湾台風の復興費用に充てられることになった。
その後、1962年~63年にかけての予算で、客船の建造費用の調査費用として1,200万円が計上された。
しかし、東京オリンピック開催には、もう間に合わない。
それに、1959年に計上された補助金額と比べれば、雀の涙ほどしかない。それだけ、政府の方にもやる気が感じられないことが見て取れる。
いや、もっと根本的な問題がある。
いよいよ、国際的な交通手段が、海路から空路へと本格的に移り変わろうとしていたのだ。
1963年、政府より『海上交通再建の二原則』なる声明が発表された。
ここでは、旅客が海路ではなく空路を選んで移動するかどうかという問題も提起されている。
”海上交通再建”と謳いながら、旅客運送については空路にシフトすることを示唆しているようだ。
フネ好きな私にとって実に残念だが、結果論から見なくとも、当時の日本政府の姿勢は正解だったと言うしかない。
同時期、フランスやイタリア、そしてアメリカでも潤沢な政府補助を以て巨大な豪華客船を何隻も建造したが、どれも短い期間で大失敗している。
(この話は、またおいおいさせて下さいませ😅)
日本においては、すでに1950年代前半から、国内および国外への航空輸送量は明確に大きな上昇基調に入っており、その時流に乗って、かつ東京オリンピック開催に向けて、羽田空港も運用能力拡張のため様々な努力が為されている。
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現在の姿を思うと、長閑な印象すら受ける。
羽田空港拡張のため、国費投入に向けての努力もあちこちで見られる。
なまじ、国が貧乏だったが故に『空か?海か?』どちらか、取捨選択するしかなかったのだ。
皮肉なことに、それが功を奏した形になった。
ワシントン大統領
戦後の太平洋航路は、実質的に『プレジデント・クリーブランド』『ウィルソン』姉妹で独占しているような状態だった。
それに加えて、本国では新しい豪華客船を建造しようとする構想が持ち上がっていた。考えることは日本と同じである。
1952年、ユナイテッド・ステーツ・ラインがその名の通り、『ユナイテッド・ステーツ』を花形の大西洋航路に就航させた。
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My late father, Public domain, via Wikimedia Commons
総トン数53,329トンという、アメリカが建造した最大の客船であること以上に、彼女の何よりの特徴は、その最大速力。
公試時には38.32ノット、時速にして約70㎞という韋駄天ぶりを発揮している。
長い間、大西洋航路はイギリスとフランス、続いてドイツやイタリアの豪華客船がそのシェアを占め、アメリカはというと中型の客船が精一杯だった。
そんな肩身が狭かった航路でついに英仏の客船を超える客船を送り込むことに成功したのだ。
処女航海で大西洋航路最速横断記録を達成したフネに与えられる『ブルーリボン賞』を獲得している。
1956年になって、彼女の姉妹船を建造しようという話がアメリカ議会などで盛り上がり始めた。
そこで、「太平洋航路でも新しい豪華客船を」という話になっていった。
太平洋航路向けの客船は、いささか小ぶりの43,000トン程度であった。
それでも、日本が計画していたものよりも大きいし、原子力推進も検討されていた。
彼女には、今まで一度も船名に採用されていなかった、初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで『プレジデント・ワシントン』という、正にフラッグシップに相応しい名前が予定されていた。
結論から言うと、これも潰えた。
こちらもおカネの話でもめたが、アメリカでの経緯はもっとややこしい。
それはまた別稿で。
ついに終幕
念願の豪華客船構想が潰え、日本郵船はついに『氷川丸』を引退させると共に、客船事業からの撤退も決断した。
1960年8月27日横浜発の第60航をもって、足かけ64年にわたる、日本が運行してきた太平洋航路の歴史に幕を下ろした。
これで残るは、アメリカン・プレジデント・ラインのみとなった。
しかし、『プレジデント』姉妹の先行きも決して明るいとは言えなかった。
国際交通路は、海路から空路へと完全にシフトしてしまっていた。
それでも運行を続けられたのは、定期船への潤沢な補助金があったから。しかも、その期間は就航から25年間もの長い間。
これは、いざという時に、軍隊輸送船として活用するためでもある。
『プレジデント』姉妹の場合、1972年にその補助が打ち切られる。
補助金が無ければ、とても運行し続けられない。
利用する乗客が減る一方で、燃費が悪い彼女たちはいくら重油があっても足りない。
しかし・・・、
軍隊輸送船として活用される絶好の機会に思われたベトナム戦争では、彼女たちにお声がかからなかった。
なぜなら、民間でチャーターした旅客機や空軍の輸送機に、そのお株を奪われてしまったから。
国際交通路だけでなく、軍隊における大量の人員輸送においてすらも、船の出る幕ではなくなったということだ。
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今も現役の西側最大の軍用輸送機!初飛行は1968年。
USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
飛行機の写真を見ただけでも、もはや完全に潮目が変わってしまったことが窺い知れる。現代のジェット機と何ら変わらない。
50年代後半から70年代初頭にかけて、ジェット機が技術的に完成していった時期だ。
それでも、何とかしがみ付こうと必死にもがき苦しんでいたが、1972年10月に『クリーブランド』が、翌73年に『ウィルソン』が引退。
1948年の就航だから、むしろ24年間よく働いたというべきだろう。
これで名実ともに太平洋定期航路が全て幕を下ろすことになる。
これが、私の生まれるわずか10年前の話だと思うと、ものすごい昔の話とは思えないですね😅
ちなみに、彼女たち2隻はそのまますぐに引退しなかった。
香港の”オリエント・オーバーシーズ・ライン”に引き取られた。
同社は”OOCL”という略称の方がなじみ深いだろう。
OOCLは、2隻をクルーズ船として運行することを計画した。
しかし、結果論から言うと・・・、
賢明な買い物ではなかった。
もう・・・、すぐそこまで来ていた。
第一次オイルショックが。
今の、横浜・大さん橋
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今の横浜・大さん橋には定期航路客船ではなく、クルーズ客船が発着するようになっている。
クルーズ船は、昔のような交通手段としてではなく、自らに乗ることそのものを目的とし、あちこちを観光して回るフネである。
平成時代までの日本では専らセレブの対象と思われていた船旅も、わずかに敷居の低いものになりつつある。
それでも私たち一般ピーには、縁遠い旅行スタイルですが・・・(;´Д`)
ただ・・・、
一番の違いは、すぐに帰ってこられるかどうかではないだろうか。
現代の船旅は、純粋な観光であり、数日後長くても数ヶ月後には帰ってくる。
一方、交通手段だった昔の船旅は、帰ってこられるかどうか分からない。
もちろん旅行で利用する人もいたが、多くは出張もしくは留学などで、長い期間国を離れるために乗船した者が多かった。
はたまた、大きな夢を叶えるため、あるいは何かから逃れるために、強い決意をもって、旅立つ船のデッキに立った者もいる。
希望に充ちた明るい光景の一方で、悲壮な別れもあった。
現代の空港における保安検査場での短い時間と違い、互いの姿が見えなくなるまでの長い時間、別れを惜しむ切なさ。
現代の私たちには最早、ほとんど味わえない浪漫だろう。
ふと目を閉じると、華やかさと哀しさが合い混ぜとなって、大さん橋を離岸してゆく、『太平洋の女王』の姿が浮かび上がった。
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終わった。な。
noteにしては長い記事だったのでしょうか・・・(;´Д`)
しかも前・中・後編の三段構えで、冗長な記事に付き合って下さり、ありがとうございます・・・。
まず、私に文章を簡潔にまとめる力が無いし、
それ以上に・・・、
とにかく、めっちゃ文章を書きたかったからです(。・ω・。)
そういう言い訳を含めて、簡潔にまとめる力が無いと言うのでは😒
今後もこんな感じで記事を出していきますだおかだ(;´Д`)マタスベッタ・・・。
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