科学至上主義への誤解
前回の記事で、「疑いを味方につける」ということを少し書きました。
よく、SNSとかで(SNSに限ったことではないけれど)「ソースは?」というやりとりを見かけます。ソースといってもとんかつにかけるアレではなくて…。それとか「エビデンスを示せ」とか。
”それが正しい情報である”ということを示すためのものなんだけれど、”ソース”はsauceではなくて、source(出どころ、源泉)の方で、evidenceは証拠や証明という意味ですね。
既知のものに対する、その真偽や正誤を確認するためには、そのソースやエビデンスは大切なものだと思う。
しかし、全く未知のものだったとしたら…?
そこには、確かなソースもエビデンスもないはず、だって未知なんだから。
僕はいわゆる”スピリチュアル畑”の人間だけれど、”科学的な姿勢”を決して軽んじているわけではない。むしろ、科学とスピリチュアルの共通項を大切にしているのです。
未知のものを、”既知”に変えてきたのが、科学です。
そして、その「未知なるもの」に対する真摯な姿勢を持つ人たちが科学者である…と。
科学的に考える、ということって、既知のものをかき集めて、納得のいく理屈を作るんじゃなくて、未知のものに真剣に真摯に、そして誠実に向き合うその姿勢から生まれるもののはず。
すでに証明された物事だけを頼りに、理論武装するのであれば、それはむしろ「非科学的な姿勢」だと、僕は考えているのです。
「疑いを味方につけるんだよ。」というのは、科学の物事を立証する流れに沿っているのです。
科学者が何かを明らかにしようとする時、必ず現段階で考えられる”仮説”を立てます。この仮説は、既知のものごとと科学者自身が遭遇した現象や事実から、科学者自身の内的なインスピレーションによって成り立ちます。
もっと、平たく言うと、ひらめきや直感、ちょっとした違和感のようなものです。
「これって、もしかして・・・」
です。
仮説があり、それを実証するための実験や計測、観察などがあり、そして数々の検証を経て、未知が既知へとなっていくわけです。
科学的な見地で、現象や自分自身の体験に向き合うことって、この
「これって、もしかして・・・」
ということを素直に受け止めることです。
科学的な物事への向き合い方をしようとするなら、そういった感性が必須なのです。
この「もしかして」というのは、自分が間違えているかもしれない、とか、他の方法があるかもしれない、とか、そういう「未だ自分が知らないこと」に対する”開かれた心の姿勢”なのです。
人が、迷うとき、悩むとき、実は「自分自身の考え方」いわゆる観念や信念に囚われていることが多いものです。
現象また現実は、「君のその古くなった観念、信念を見直してみるといいよ」と、働きかけてきているのですが、本人にとってはそれは「困りごと」のようにしか見えないのです。
なぜなら、本人が自分の考え方、価値観、物事に対する向き合い方を改めようとしないで、それにしがみついているから。
自分の「正しさ」というものは、時に自分を縛り、すでに自分が持っている価値観や考え方の中に、自分を捕らえることがある。
世の中を見れば、「正しさの押し付け合い」が日々、繰り広げられているし、友好的な関係を築きたいと願う人たちの中でも、自分の正しさを主張して、望んでいる理想の関係から、自ら遠ざかっていく人たちもいる。
本人の意識では、そんなことは望んでいないのに…。
”人は、間違うもの”
”人には、わからないものがある”
そのことを受け入れることができるなら、あなたは今よりも、自分自身にも、あなたが大切に思う人にも、すれ違うだけの人に対してだって、優しくなれるだろうと、僕は思っているのです。
”既知のもの”だけを頼りに、判断を下していたとするなら、未知のものに対しては、全くの無力です。
”ちょっとした違和感”のような、「ん?」という”何か違うぞ?”とか、”何かあるかも?”という、その言葉にならない感覚。
その微かな感覚を、大切にしてくのであれば、あなたは「みんながそうしているから」という誰かのコピーペーストのような人生に、終止符を打つことができるだろう。
「仮説」を持てる、ということは、可能性に心が開かれている証なのだから。
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