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恋愛における“悪魔の証明”

 ナグです。

 “悪魔の証明”という言葉をご存知でしょうか?

 簡単にいうと、

『〇〇が存在しない、ということを証明できないなら、〇〇は存在する』

という、論法です。たとえば、「りんご」という果物がある(存在する)、ということを証明するなら、リンゴを1個もってくればいいわけです。

 法律、裁判、議論などで時折みられるのですが、「ない」ということを証明せよ、と迫ることで責任転嫁や論点をずらすようなことが行われます。こういったことは、感情的になった人間同士の中でもよくみられるんですね。

 さきほどのりんごのように「ある」ということを証明するのであれば、実際に見せればいいし、持ってくればいい。しかし、通常、「ない」ということを証明するのは簡単じゃないんですね。想定されるすべての可能性をつぶさしていかなくちゃならないし、それはほぼ「不可能」です。

 さて、今回のタイトルは『恋愛における“悪魔の証明”』という、なんとも恐ろしいタイトルですが、論理学的な表現、議論の場などでの考え方をもとに、スピリチュアルな話へと展開していきたいと思います。(ちょっと「頭の体操」のように軽い感じで捉えてみてください。)

 以前の僕の記事で、

『愛すること、愛されること』

というタイトルで書き綴ったものがあります。この記事にも関連してくる内容なので、よかったらこちらも合わせて読んでみてください。

 「ねえ、私のこと好き?」

 若い二人の間の微笑ましいやり取りのなかで出てきますよね?こういう問いかけ。もちろん、女性から男性へ向けたものには限りませんが。ときどき、どっちのほうが相手を好きか?でちょっとしたケンカみたいになったりすることもあるようです。

 相手が、自分のことを好きでいることが確認できる言葉なので、最初のうちはこういう問いかけが「可愛い」と感じることも多いのかな?なんて思ったりします。

 「愛の証明」を求める言葉なのかもしれません。古来より人は、さまざまな形で自らの想いを、大切な人に伝えるためのさまざまな表現を生み出してきたことでしょう。(もちろんそれには“商業的戦略”に彩られたものもありますが、それはまた別の話で。)

 自分が相手を「愛している」ことを証明する。

 このことを考えたことがあるでしょうか?

 あるいは、逆でも構いません。

 相手が自分を愛していると確信するための方法、その証明は何か?

 こういう問いになるかもしれないですが、この部分をていねいに見つめることは、意外にやってきてはいないことなのではないでしょうか?

 これは僕自身が自分の体験を通して、帰結したものなので、読者の方それぞれが、自分はどう思うか?どう考えるか?を見てもらえればと思います。

「自分が、目の前の大切な相手を愛している」と、証明することは瞬間的には可能であるが、永続的には不可能である。

これが僕自身の結論です。

 僕は、いろいろな話の中で時折、“愛を受け取る能力”という表現をするのですが、この能力は人生の経験の中で、あるいは培ってきた“魂の体験”のなかで、磨かれていくものだと思っています。育てることができる「才能」だと、考えているのです。また【彼ら】は、それこそが「魂の学びである。」とも伝えてきているのです。
(※僕が【彼ら】と表現するのは、僕のガイド(指導霊)である“ J ”をはじめとする霊的な高次元の存在のことです。)

 恋愛において、感情は揺れ動きます。相手の愛情や想いに確信を持てる時もあれば、相手が冷めてしまったんじゃないか?嫌われてしまったんじゃないか?もう、愛してくれていないんじゃないか?という不安に襲われてしまうこともあるでしょう。

 こうした「一時的な感情の揺れ動き」というのは人間なので必ずあります。それは仕方のないことです。仮に感情が全く揺れ動かないのであれば、それこそ、そちらの方が問題になるでしょう。

 しかし、自分に対する“定義”や自己評価のような深いレベルで、

「わたしは愛されない存在だ」

という思いが、心を、あるいは魂を染め上げてしまっていたとしたらどうでしょう?

 愛されていないかもしれない、という不安をなくすために、相手に「私を愛していることを証明して」と求めてしまう。そして、自分が受け取れるカタチでなければ、それが相手なりの表現であっても受け取れない。

 そういう状態に陥ってしまった時、相手に愛を求めれば求めるほど、その相手は「どうすれば自分の愛を受け取ってもらえるのだろう?」と、苦悩することになるのです。そして、「自分の愛」に自信が持てなくなっていく中で、“もしかしたら、自分じゃダメかもしれない。”と、二人の間にある「愛」を見失っていくのです。

 こういう状態に陥って、お互いに信じることができなくなってしまい、離れていくカップルはある一定数以上、いるのではないでしょうか?

 恋愛における、悲しく切ない場面です。

 私は愛されている、という安心感の中で「私のこと好き?」と問われることは、微笑ましくあたたかな恋愛のワンシーンですが、根底的な『私は愛されない』という思いから投げかけられる「私のこと好き?」は、答えの出せない問いかけとなってしまうのです。

 愛は二人の関係性の中に色濃く現れていくのですが、表現する側、受け取る側、それはそのときそのときで、お互いの立場を入れ替えるように繰り返される中で、絆として強まっていったり、お互いの未熟さから傷つけあってしまうような悲しみのワンシーンへと変貌していくのです。

 この恋愛における“悪魔の証明”によって、二人の関係が破綻してしまわないように、二人の関係がより愛と安心に満ちたものとしていくために、できることがいくつかあります。

 一番最初に言えることは、

「わたしが愛されていると感じる時は、どんなときなのか?」

ということを、自分に問いかけていきながら、それを明確にする。ということです。

 このことは、“自分の愛を受け取る能力”がどのようなものなのか?を知ることに繋がります。よくスピリチュアルな話の中で「自分を見つめる」とか、「自分と向き合う」とか、そういった表現がなされますが、僕から言わせると、それはとても曖昧(あいまい)で、どんなふうに自分を見つめればいいのか?どんなふうに自分と向き合えばいいのか?が、どうしても我流になり、傷を深くしてしまうこともあり得るのです。

 自分が求めているものを明確にすることは、“体験”を自らの人生に呼び込む秘訣です。

「愛し愛される関係」を求めている。

といっても、その関係性は多種多様です。ひとりひとり、受け取れる愛の「カタチ」があるのです。自分の得意なカタチ、気付けるカタチがあるのです。

 何かが欲しいとき、『私はこれが欲しいです!』と、力一杯声に出すのです。そして、私にはそれが与えられる、という確信に近い想いを心に抱いておくのです。あなたの心の中に「ある」と思えるものは、必ずあなたの人生にカタチとなって現れてくるのですから。

 今日の記事では、最も大切だと僕が思うことをひとつ、挙げましたが、今後また「恋愛における“悪魔の証明”」というテーマで、他にもいくつかある要素やステップを記事にしていきたいと思います。

 読んでいただき、ありがとうございました✨😃
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