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4月になりましたね。

久しぶりの更新になります。

今日から4月。
4月1日は『エイプリルフール』ということで、“フェイクニュース”とか、話題作りで公開されていたりする。

個人的にはもう“日常がフェイクなんじゃないか💦”と思ってしまうここ数年なんですが…。

で、“フェイク”について、ちょっと徒然に書きたいと思います。

直訳すると“偽の”って意味とか、“〜のフリをする”という意味なんですけど、例えば“フェイクファー”とかありますよね。また、美術品の世界では、真作、贋作という言葉もあり、“ギャラリーフェイク”って漫画もありましたね。

美術の世界において、贋作は絵描きが、巨匠の技術に近づこうとして、模倣したりするもので、そこには“憧れ”があり、単なる“偽物”としてのフェイクではないと、僕は思っている。
それは、『オマージュ』であり未だ未完である、という描き手の自己評価と向上心の現れだと思う。

“フェイク”というものは、表面的に見てしまうと、単に“嘘”、“偽物”という見方になるかもしれないけれど、そこにどんな思いや意図があるのか?を見つめていこうとすることで、より素晴らしい“フェイク”に触れることもできると思うのです。

『傷つけないための嘘』

というものがあります。

誰かを傷つけないために、仕方なく嘘をついた、という経験は誰もが一つや二つ、持っているものでしょう。

同じ『傷つけないための嘘』であっても、相手を思っての“フェイク”なのか?自己保身のためのそれなのか?

それは、本人にしかわからないかもしれない。

真作と贋作、真実と虚偽…。

日本人の処世術には『本音と建前』がある。他の国でも大なり小なり、そのようなものはあるだろう。

この数年、『何か真実で、何か偽りなのか?』が、不透明になっているように、個人的には感じているけれど、この“true or false”の無限のグラデーションの世界で、僕は自分の感じていることを見失ってしまわないようにしたい、そう思っている。

人間関係においても、同じことが言える。

“僕はこう感じた。”というのは、あくまで“僕の観点”、“僕の感性”、僕自身が世界とどう向き合うか?で決まる主観的なもの。

心の片隅に“相手は違うかもしれない”という観点を、常に携えていることで、無用な「正しさバトル」から、降りることができる。

とかく、人は『自分の正しさ』を、他者に押し付けてしまう。
そのためにたくさんの誤解や、いさかいが生まれている。

必要のない争いで、一体どれだけ人々の心は疲弊してしまったのだろう?

疲れ切った心は、希望を抱くことを諦め、思考することを放棄してしまう。

事実だけを元に、真偽を見極めようとしてはいけない。

起きた事実や出来事の中で、関わる人の数だけの“真実”があることを、忘れないでいたい。

あなたが、彼の言葉に傷ついた時、彼女の言葉に傷ついた時、
思い出して欲しいのは、あなたはその言葉によって傷ついただけでなく、“あなた自身の受け止め方”に傷ついていること。

「わたしって、こんなふうに受け止めがちだよね。」

それを自分が知っているだけで、もう少しあなたは優しくなれるから。

虚像に満ち溢れた、このフェイクな世界で、揺るぎない真実があなたと共に分かち合えるように✨✨

そう、僕は僕の真実をたずさえ、この場所で待っている。

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