愛すること、愛されること
ナグです。
前回の記事では、「個であり、全である。」という“魂の性質”について書きました。言葉では、矛盾するようにみえるもの、言語の表現のなかにおいては、「個」であるならそれは「全」ではないし、「全」であるなら、その中に「個」が埋もれていってしまうことでしょう。それは、物質的な世界においてもそうです。
群衆の中では、たったひとりの小さな声がかき消されてしまう、というようなことが世の中では当たり前のように起こっているでしょう。しかし、霊的な世界においては“最も小さき者の声”こそ、最も耳を傾けられる声となるのです。
私たちは、物質的な世界で肉体を持って、“個”の意識、「わたし」という意識を持つことで自分を、そして世界を体験して、魂を成長させています。
親密な関係において、魂は自身の純粋さや無辜である姿と再び出会い、その輝きを増していきます。ごく一般的な言い方をするなら、「愛を分かち合う」という体験を通して、人間はその魂を成長させていけるのでしょう。
僕は話の中でよく“半分でいい”ということを口にします。
これはなにも「中途半端でよい」とか、「精一杯やらなくてもいい」とか、そういう意味ではなくて、全体としてみたときに“自分にできること”そして、その結果現れてくる状況、環境という“自分にはできないが、与えられるもの”というものがあることが理解できるのです。
この“半分でいい”という考え方を、僕はこのようなたとえで話すことがあります。
たとえば、あなたが“先生”になる、という夢を抱いていて、その夢に向かって精一杯に努力をしていきます。現実的には、大学の教育学部に進学し、教員免許を取得し、“先生”として働く資格を得たとします。
あなたが「教員の資格」を得ました。しかし、まだ“先生”ではありません。“先生”として働くには、私立の学校であれば、その学校に採用される必要がありますし、公立の学校であれば、地方公務員の資格も取らなければならないでしょう。
私立であれ、公立であれ、「学校で働ける」という状況は、あなたが学校側に採用される必要がある。ということです。この部分は「自分ではできないこと」なのです。
そして、仮に学校で働ける、となっても生徒たちがいなければ“先生”ではありません。もし誰も生徒がいない、となると『じゃあ、自分が生徒になろう。』というわけにも行きませんよね?もしそんなことしてしまったら、あなたは“先生”ではなくなるのですから。
このことは、何においても言えるのですが、セラピストになるにしても、ヒーラーになるにしても、“自分にできること”は半分なのです。
そして、「愛すること/愛されること」ということを話すときにも、同じことが言えるのです。“愛されること”は素晴らしいことです。そして、それを理想として、それを求め続けてしまうこともよくわかるのですが…。
「自分にできることと、自分にできないことを明確に分ける」
『原因と結果』の法則と言いましょうか?
“愛すること”は、自分にできること、自分自身の想いの表現です。
“愛されること”は、自分にはできないこと、言うなればそれは「結果として与えられるもの」だということです。
これを受け入れることが、とても難しいということもわかります。なぜなら「愛されること」を切望し、それこそが幸せであると求めてしまうところがあるからです。
人は“愛されること”を目的として、自分の思いや言葉、表現をしてしまうものです。そして、その表現が報われないとき、望んでいた形にならなかったときに、また傷ついてしまうのでしょう。
僕は、静かにこう言葉をつないでいきます。
「人には、“愛すること”しかできないんです。愛されることは、与えられる結果です。目の前の人が、あなたを“愛すること”を選んだからこそ、愛し合う関係が成り立つんです。」
そういう立場に立ったとき、あなたを“愛すること”を選ぶ、というかたちで、あなたの“愛すること”に応えてくれている目の前のそのあなたが愛する人に、感謝や尊さという崇高な思いを抱くことができるのではないでしょうか?
“ただ愛すればいい”
という表現がありますが、実はそれは、“自分には愛することしかできない”という意味なのです。これは、なにも悲しいことではないし、だからといって希望が失われたわけではありません。
ここには、自由があります。
自分の意思で選択し、自分の意思で表現する。そういう“自己完結”している表現は、それに触れる人に「〜でなければならない」という脅迫的なエネルギーを感じさせないものです。
シンプルにいうと、
「私は、あなたを愛しているから、私の愛を表現しています。」
ということに帰結するのです。もし、この形に帰結しないのであれば、それは「愛」を物質世界のやり取りのように扱う、契約や取引に貶めてしまうことでしょう。
高次元の霊的な存在たち(以下【彼ら】と表記)の、私たちに向けてくれる想いは「愛そのもの」です。彼らが私たちを信じていて、理解していて、わかっているから、忍耐強く導いてくれているのです。
私たちは“時間”というこの世界の法則に縛られているのですが、【彼ら】はそうではありません。“時間も空間も超越している”ので待つということは【彼ら】にとっては存在しない概念なのです。
ある人は、こういう言っていました。
「待つことは、“信じること”だ。」
と。
ならば【彼ら】は、私たちを信じ続けてくれていて、疑っているのはむしろ私たちの方なのだ、ということに、僕自身は気付いたし、【彼ら】を信じてみよう。と思いながら歩み続けて、そして、今ここにいるのです。
“なんか難しい話だな”と、思われるかもしれませんが、
「そうなのかもしれないな。」
と、心の片隅に留めておいていてくだされば幸いです。
愛することしかできないなら、愛すればいいじゃない?
ただそれだけのこと。
Maybe Love is "simple",so be it.
読んでいただき、ありがとうございました✨😃
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