選択肢が多いこと、少ないこと
何かをするにしても、何かを買うにしても、何かを学びたいと思っても、今の時代、とても選択肢が多いですよね?
例えば、ものを一つ買うにしても、今のようにネットが普及しているような時代ではなかった頃は、”売っているところへ買いにいく”ことが前提になっていました。
今では、スマホを片手に、ベッドで寝転がりながら、「あ、これほしい!」で、ポチればあとは自宅に届くのを待つだけで、事足りてしまう。
便利になったものですよね?
自分の足で、買いに行かなければいけなかった時代から比べると、同じ商品を欲しいと思って、スマホ片手に色々なサイトを見ることができる。以前と比べると「選択肢」はものすごく増えているわけです。
「選択肢」がたくさんあることで、逆に迷うことってないですか?
例えば、洋服とかでも、かたちは同じなんだけど、色がたくさんある。
というとき、「何色がいいかなぁ?」ってなりますよね?(まあ、決まっている人は、それは問題ないのでしょうけれど。)
色のバリエーションとかがなければ、それを選ぶしかない。
選択肢が多いことは、一般的には「良いこと」とされているように思うのですが、“なぜ自分はそれを選ぶのか?”という自分の中での「理由」を明らかにすることを迫られている、とも考えられるのです。
服を選ぶ、という例えでお話ししてきたのですが、今日、僕が何を言いたいか?というと・・・。
そういったものを買う、ということだけでなく、日々、目にする耳にする『情報』も膨大なものになってきた中で、それをどのように受け止め、選択していくのか?ということが、とても大切になってきた時代だな、と痛感しているのです。
選択肢の少ないことは「不自由」とも言われます。逆に選択肢が多いということは「自由」なようにも見えます。
誰もが、ネットを活用してYouTubeをはじめとする動画サイトで「自分の番組」のようなものを作れるようになりました。しかしながら、そこで発信される情報の真偽や価値、そういったものを判断する力は確かに求められているでしょう。
「通販で買ったら、思ってたのと違った。」
という経験をされた方も、少なからずおられるのではないでしょうか?
特にこの数年、「情報」をどこから得ているか?で、世界は大きく分断されていると感じているのです。
それは、年齢層によっても大きく違うし、関心を持つ分野によっても違うでしょう。今の若い世代の中には「テレビ置いてません」という人たちも結構いますが、年配の方にはスマホやネットは、依然として「未知の機械」のようです。もちろん、スマホはガンガン使うし、Twitterやインスタやってます。というお年寄りもいますけどね。
「情報源はテレビ」という人と、「情報源はネット」という人。
笑い話ではないんだけれど、新型コロナのワクチンの話で若い人たちが、
「あれってどうなの?あんまり打ちたくないね。打たない方が良くない?」
と、言っているところに、おばさまが割り込んで、
「あなたたち何言ってるの?ワクチン打てばコロナなんてかからなくなるんだから、打った方がいいわよ。あなたたちもっとテレビ見なさい!」
ということを言われた。という話を聞いたことがあります。
それって・・・どうよ?
メディアの発表、政府の発表、新聞の記事・・・。
新型コロナのこと、ロシアとウクライナの戦争・・・一体何が本当のことなのか?ということを見抜くことは難しいとしても、無判断に鵜呑みにすることの怖さを、ここ数年とても強く感じています。
テレビを見ないで、ネットから情報を取ればいいのか?というと、ネットの世界はまさに玉石混交ですし、本当に「自分で考えること」を迫られた時代になってきたなと、思っています。
世の中を動かしている人たちは、確実に私たち一人ひとりに「考えてほしくない」わけで、今世界は「情報戦」の真っ只中なのでしょう。
ウクライナが農業立国だということを、どれだけの日本人が知っているのでしょうか?
モンサント社が、ウクライナで強大な力を持っていることをどれだけの日本人が知っているのでしょうか?
溢れかえる「情報」の中で、
一体何が信頼できるもので、
一体何が”フェイク”で、
そして、その”情報”は、私たちをどこへ向かわせようとしているのだろう?
そんなことを、考えるひまもないくらいに浴びせられる情報の怒涛の波に、飲み込まれてしまわないように、自分で考えることは諦めたくないと思っているのです。
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