”それが真実だ”と受け入れたことを体験するという話
昨日は、”エイプリルフール”でしたね。
素敵なフェイクを体験した方は、おられるのでしょうか?
いろいろな方のお話を、仕事柄聞くことがあります。もちろん、仕事に直接関係のないちょっとした世間話や雑談の中でも、時々、
「ああ、この人にとっての真実は、そうなんだな。」
と、思いながら話に耳を傾けていることがあります。たとえそれが、僕の真実とは違っていたとしても、静かに耳を傾けています。
3月の20日過ぎごろに「まん防」が解除されて、夜でも外で食事ができるようになったりして、周りの環境が少しずつ変化している中で、ワクチンのことが話題に上がることも、時折あります。
国としては、3回目のワクチンを推奨しているようだけれど、本当にいろいろな声を耳にします。
”2回打っても、感染するんなら、3回目なんて打たなくても良くない?デルタ株よりも、オミクロン株って重症化しにくいんなら、感染予防は意識するけど、もしかかってしまってもそれで免疫獲得できるかもしれないし。”
という声も聞くし、
”ワクチンを打っていても、1回や2回では感染が防げないくらい、感染力が強いんだから、ワクチンの効果が弱くなる前に、しっかりとブースター接種しないと、いつかかるかわからないよね。かかって、身内とかにうつしたりしても大変だし。”
という、声も聞く。
前者の人は、「ワクチンは感染予防に効果なし」ということを、自分の真実として受け入れている。一方、後者は「ワクチンには一定の効果がある」ということを信じているわけで。
いろいろな人の相談を聞き、そして、”こんなふうに考えてみたら?”と、相談者の意識の焦点を、今までのものとは違う方向へ、ちょっと動かす。
うまくその方の”意識の焦点”が、今までその人が信じていた「真実」から、ちょっとずらすことができると、その人は新しい視点や、新しい体験に触れることができるようになるのです。
「疑いを味方につけるんだよ。」
と、僕はよく、悩んでいる人に語りかけるのですが、「こうに違いない」というふうに頑なに自分の考えの中に閉じこもってしまうと、その「自分を捉えている観念」の外の真実には触れることができなくなってしまうから。
”本当のことを知りたい”と、僕は思うし、そう思うのは人として自然だと思う。でも、一方で僕は、絶対的な「本当のこと」って、なかなか見えてこないんだろうとも、思っている。
「もしかしたら、こうかもしれない。」
「もしかしたら、違うかもしれない。」
「もしかしたら、間違っているかもしれない。」
10年前は、それが「正解」だったことも、今では「間違い」になることだって、歴史がそれこそ山のように証明している。
もし、あなたが、誰かのことを「あの人はどう思っているんだろう?」と、気になってしまうのであれば、その人が思っていることや、感じていることを、全部知ることなんて到底できないんだ。ということを、一度受け入れてみるといい。
「わからない」ということは、「これから、わかるようになるかもしれない」という可能性があるということ。
その可能性があるってことは、僕は素晴らしいことだと思っている。
だって、人って、自分と違うから「へぇ〜そうなんだ!」って、気持ちが動かされたりするものでしょう?予想していないかった、その人の心の片鱗に触れたときに、見直すことがあったり、もちろん、ちょっと落胆しちゃうこともあるけれど。
ある人のことを、全部わかったつもりになっているとしたら、それはとても傲慢だと思うし、それは人に限らずなんだけどね。
2年以上、世界をお騒がせしている「新型コロナ」のことなんて、ぜ〜んぶ知っている人って、それこそいないんじゃないかな?いるとしたら、「仕掛けた側」の人たちだけだろうな。
とか、思いながら、自分の真実を大切にしながら、そして程よく疑いながら、僕は日々を過ごしているのです。
「わからない」ことを、「いつか、わかることができる」
そんな時が来ることを楽しみにしながら。
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