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教室に閉じ込めること・解放すること

 こんばんは。
 今週、最高学年を送り出す行事がありました。全国の小学校でもこのシーズンでしょうか。そこで、各学年の出し物があったのですが、どの学年も子供たちの表情が生き生きとし、凛とした雰囲気で表現していました。そんな表情を画面越しに観ていて、ふと気付いたのです。

 こういう『場』って必要だなと。

 子供たちの表情が生き生きとしていたのは、何も最高学年を感謝の気持ちを持って送り出したいという気持ちばかりではないだろうと思うのです。

 教室に居ること。

 これが当たり前になって、教師と子供だけの関係を構築するだけの空間になってしまえば、それは窮屈で、まさに『閉じ込められた』状態に近いかもしれません。

 先日、研究部から次年度の研究構想の提案がありました。その中に、『生徒Agency』という文面があったので、よりよい地域社会を創り上げる一員として、地域にコミットした授業提案を通して、子供の資質・能力を育むという方向性を一意見として述べたのですが、採用はされませんでした。端的に言えば、コストがかかりすぎるからだそうです。悪い言い方をすれば、そういう授業提案は、面倒なのでしょう。研究授業は、教室で教師と子供がいる、というのがデフォルトになっているようです。

 行事は行事。
 授業は授業。

 この誰からか教えられてもない教師の都合による区分けが、教室をつまらないものにしているかもしれません。

 『教えなければ子供に力がつかない。』

 確かにそうなのかもしれません。そう言いたくなる気持ちも分かります。ですが、授業中の子供の活動時間と学力の達成度が密接に関わっているという研究もあるように、狭い教室空間でたっぷり活動させるのと同じように、広い世界でのびのびと活動するのも効果があるように感じます。

 教室ではない空間に学びに向かう。
 教室ではない空間で発信する。
 教室にはいない登場人物と関わる。
 教室にはない問題と出合う。
 教室の外の時間軸で動く。
 教室とそうでない空間を結ぶ。

 仮にこれを『解放すること』というならば、それはそれは教室を価値ある空間にできる気もするのです。知のベースキャンプといいますか、研究室といいますか。

 これからこの子たちは、もっと広い世界に出て行くのですから、世界が広いってことも教室が狭いってことも、どんなに自分がちっぽけだってことも自分にしかできないことがあるってことも知っておいて、『ならば、こんな道を行こう』と人生を謳歌できるようにしたいなあと。

 こういう『場』。必要です。

 

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