なぜ主語を大きくしすぎる人はいなくならないの?
社会問題の中でも特に、みんなが少しずつ気をつければいい類のものって、実はけっこう簡単に解決したりします。
たとえばデリカシー。
昔の日本人男性は、デリカシー意識がとにかく低いと世界的に有名でした。
昭和時代、金髪女性に「下も金なんですか?」とか素で言っちゃうオヤジとか普通にそのへんにいたそうです。
当時は「雑談として聞いただけでしょ?」くらいの認識しかない人も多く、外国人女性の間では「日本人男性はとにかく失礼すぎる」との印象がかなり強かったようです。
信じられないと思うけど、これ割とガチな話。
でも、「そういう発言は失礼だ」という当たり前のことがテレビで1度だけ放送されただけで、短期間のうちにそんなの口にする人はかなり少なくなりました。
でも時は流れ、今ではそんな時代があったことすら覚えていない人も多いことでしょう。
つまり、個人の考え方に由来する社会問題は、正しい情報発信がされれば、比較的短期間で是正可能なのです。
ですが、中には是正が難しい社会問題もあります。
たとえば『オジサンは』『女は』『子供は』など、巨大な主語を使ってしまってSNSを炎上させる人。
これはどんなに時代を経ても一向に減らない印象があります。
数々の社会問題に対処してきた人類が、なぜこの問題にだけ対処できずにいるのか。
今回はその理由について考察してみたいと思います――。
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私はプロエンジニアとして長らく働いております、中島と申します。
猛暑が急に終わりを告げ、「唐突に寒くなったなぁ」と温度計を見ると、なんとまだ25度。。。
これは本当に寒いと感じてよいのかどうか??
自信がなくなってきた今日この頃です。
この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム・問題を起こさないチーム運営・AIには作れない設計論などのコラムを、なるだけ面白く・分かりやすくお伝えする主旨で記事を配信しております。
1. 本当に臭いのはいったい誰?
かつての数々の事件を引き合いに出すまでもなく、いわゆる《オジサン》と呼ばれる人々は、昔から女性から臭いを揶揄の対象とされてきました。
スメハラという言葉が生まれるよりもはるか以前から、「オジサンは臭い」は連綿と言われ続けていることだったんです。
記憶にある限り僕が小さい頃から(あるいはおそらくは古代から)、ずっと「臭いが嫌」と言われ続けてきたんです。
つまりオジサン臭いという発言は、ネットに書き込む人の立場からすれば、いわば「昔から言われてる当たり前のことを言っただけ」ということでもあるわけです。
なのになぜ、それが今さら炎上してしまうのか。
言うまでもなく、“臭いのは何か”という条件づけが間違っているから。
臭いのは《オジサン》ではありません。
“書き込みをしたその人物が、たまたま出会った特定のオジサン個人” が臭いんです。
書き込みをする側からすれば、「私は個人なのだから、特定の個人について話すことは当たり前」という感覚でしょう。
だから “こないだ道ですれ違ったオジサン” “会社にいる同じ部署のオジサン” “親戚のとあるオジサン” など、たまに出会う臭いのきつい人物を総称して《オジサン》と呼んでしまうんです。
なぜなら、“個人は個人の話しかしない”というのが、その人の中での常識だからです。
ですが残念ながら、それは認識として間違いですよね。
だって、インターネットは公共の場所だから。
“私がSNSに書き込むのが個人的な愚痴だなんて当たり前”という常識と比べれば、インターネットは公共の場所という常識の方が力が強いからです。SNSに書き込んだその愚痴が個人的な愚痴であるならば、「そもそも公共の場所になんか書き込むな」って話なんです。
たとえSNSという仕組みそのものが、個人的な愚痴を書くために作られたものだったとしても、です。
世界中のSNSベンダーの方々がどんなに許してくれようとも、残念ながら公共の場所に個人的な愚痴を書くのは間違った行為なんです。
“インターネットは公共の場所である”という概念は、とにかく物凄い強い力を持った、優先度の非常に高い常識です。
他のどんな社会常識もねじ伏せて、何でもかんでも「だってインターネットだもん」で済まされてしまいます。
そしてインターネットが公共の場所である以上、主語は大きく受け取られるものです。
たとえば私が「人は、おならが臭い」と書き込んだとすると、このときの主語は本当に文字通り“地球人類全員”を指してしまいます。
まかり間違っても、私がこないだすれ違った見知らぬ人個人のことではありません。
でもファミレスで個人的に友達と話すときは逆ですよね。
私が友達の前で「人は、おならが臭い」と言ったとしても、「そんな人とすれ違ったの?」と、誰だって一発で察してくれます。
ファミレスの座席は公共の場所ではあれど、公共度がそんなに高くない場所だからです。
主語は小さいのが当たり前で、人類全体など話を大きくするときにこそ補足が必要になります。
でもインターネットは全く逆。
とてつもなく公共度の高い場所であるがゆえに、
主語が大きいときは補足不要
むしろ主語が小さいときにこそ具体的な補足が必要
という、一般の日常生活とは真逆の対応が必要になってしまうんです。
つまりネットでは、説明のない主語は最大まで肥大化して解釈される原則がある、ってことです。
略して“主語最大化の原則”とでも呼びましょうかね。
にもかかわらず、ネットがそういう考え方をしなきゃいけない場所ということに、ほとんどの人は何となくでしか気づいていません。
もちろん何となくではみんな分かってるんだろうけど。
それが、主語を大きくしすぎてしまう人がいつまでたってもいなくならない理由です。
2. インターネットで主語を小さくするコツ
インターネット上の書き込みで、必要以上に主語を大きくしすぎないコツは、『本当に臭いのは誰?』をきちんと精査して考えることです。
んで、そのための一例として、今回は“オジサン臭い”問題に関してその本質がどこにあるかを、うちの妻とめちゃくちゃ話し合ってみました。
当人めっちゃ嫌がってたんだけど、謝り倒しながら質問漬けにして色々意見を聞いてみたんです。
その臭いってどういう人達?
どんな臭い?
どういうとき臭いの?
どれくらいの割合?
いつから思うようになった?
それは風呂に入ってない人の臭いではないの?
歯槽膿漏の人の臭いではないの?
ワキガの人の臭いではないの?
足が臭いんじゃなくて全身が臭いの?
当たり前だけど最後はちょっと怒ってました。マジすまん。。。
。。。。でもさ?
こんだけいっぱい質問したのに、その全ての質問に対する答えが「ん~。よく分からない」なのもどうなのよ?
こっちゃメッチャ真剣に悩んでるのに(だって僕も“オジサン”ですから)、「分かんないけどとにかく臭いものは臭い」と言われてばかりではこっちだってワケが分かりません。
だから、苦肉の策で最後にこう質問したんです。
「最後に1つだけ質問させて。最後、これがホントに最後。別に世界中のオジサンがくまなく臭いって話じゃないんだよね?」
すると、それを聞いた妻は、とうとうガチギレしてしまったんです。
「だ・か・ら!!! 最初っからそう言ってるじゃない!! そんな話じゃないの!!」
って。
。。。。。。。。なぬぅ!?!?!?!?!?
どういうこと!?!?😲
ま、最後の質問が、ようするに結論にして議論の突破口だったわけです。
「別に世界中のオジサンが臭いなんて言ってない」
“今まで臭いと言われ続けてきた男性” からしたら、これこそ
「、、、え!?!?」
って話ですよね。
「俺たちのこと散々臭い臭い馬鹿にしてきて、今さら!?」
って話ですよ。
そう。
オジサン臭いと揶揄する女性たちは、
オジサンのうち
臭い人達
だけを、今までずっと「臭い」と言い続けてきただけだったんです。
それが、“主語最大化の原則”に従って《オジサン》という主語は拡大解釈されてしまい、『世界中のオジサンは一律に臭く、例外はない。これは努力では変えられない』と世界に向けて主張していることになってしまっていただけなんです。
本当は彼女らの発言意図は、「臭い人は臭い、臭くない人は臭くない」という、あまりに当たり前すぎることだったんです。
これ、似たような発言を普段からやってる方、ホント気をつけてください。
“こんな誤解されるような言い方する方が悪い”です。
インターネット上に “主語最大化の原則” が存在する以上、説明のないざっくりした主語は常に100%必ず誤解を受けます。
とりわけ若い女性が、特にカタカナで『オジサン』と書くときには、たまたま見かけた中年と思われる男性個人のみを指して言ってることが多いです。
でもそんなのは言い訳になりません。
インターネット上にオジサンと書いたら、それは世界人口の6分の1ほどを占めるであろう年齢30~60才前後の男性全員のことであって、その総数は十数億人にのぼるものです。
そこには、それを言った本人らも好きであろう、たとえばTOKIOのメンバーといった人達も含まれます。
「そんなつもりじゃなかった」「TOKIOはオジサンじゃない認識だった」は言い訳にはなりません。
なぜなら、インターネット上に “主語最大化の原則” があるのは、人間が人間である以上仕方のないことだからです。
てゆーか、オジサン以外にも老害でも撮り鉄でもなんでもそうなんだけど、書き込みでトラブルを起こしがちな人って“考えるのが面倒くさいから主語を大きめにくくってる” だけですよね?
だとすると、そんなことをした瞬間、「私は何も考えずに生きてます」と公表してるのと同じことになると思いませんか?
それは何も考えてないならいっそ発言するなって話です。
だって公共の場所じゃんか。
他人に対して何かネガティブな発言をするときは、その人達のことは《不注意な人》あるいは《不衛生な人》、《迷惑な撮影者》等、きちんとカテゴライズして小さく区切ってあげなければいけません。
たとえその構成要員の全員が女性だったとしても、男性だったとしても、カメラマン、老人だったとしても、何も考えないで主語を大きくしていい理由にはなりません。
なおかつ、具体的にみんなが納得できる根拠も添付してね。
もし仮に、そのように考えるのが難しかったとしても、どうするのが最良なのかを考え続ける努力をすることが『人間でいる』ってことなんじゃないかなぁと、私なんかは思うわけです。
ではまた。