
情報処理の高度試験って何が高度なの?
ITとは、インターネットを経済に活用する技術のことをいいます。
コンピューター使って何かをすることの総称ではなく、経済への活用を前提としなければ、それはITではないのです。
それゆえIT関連の資格試験は、数学や天文学の試験のように、どこまでも無限に難しくはなりません。
ITそれ自体に “経済活用するための技術である” という明確な線引きが存在する以上、試験もまた、それを逸脱した設問を出しようがないからです。
にもかかわらず、IT関連の試験には莫大な数があり、その難易度も様々。
これって変だと思いません?
IT試験と現実とが連動しているのならば、『使われている業務技術の難易度が、現場によって全然違う』という現象が起こってもいいはずです。
難しい現場、易しい技術しか使わない現場。様々のはず。
でも私が20年、様々な現場で働いた範囲内では、使う技術の “難易度” そのものが、会社によってそんなに大きく違った経験はありません。
使う技術の “種類” は違えど、それにしては難易度それ自体はどこの会社も似たり寄ったりなのです。
営業チームの人達ががんばってレベル調整をしてくれていることを勘案しても、不自然なほどあまりに揃いすぎています。
にもかかわらず、《基本情報技術者試験》 と比べて、安全確保支援士などのいわゆる 《高度試験》 は難しいそう。
事実、合格率も全然違います。
でも設問は、業務で使うことしか出題されないと決まってるわけで、、、
だとすると高度試験って、他と比べて何が難しいんでしょう???
――いつもお読みいただきありがとうございます。
それから初めて見てくださった方もありがとうございます。
私はとあるIT企業でシステム構築の仕事をしている、エンジニアの中島といいます。
この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム、問題を起こさないチーム運営のやり方などを、なるだけ面白く読めるように工夫しながらお伝えしていく主旨となっております。
1. 試験問題は2種類しかない
ITに限らず、世の中のテストの設問は2種類しかありません。
知識として知っていれば解ける問題
現実をロジカルに捉えることに慣れていれば解ける問題
この2つです。
この傾向は、基本的な試験も高度試験も、それどころか世界中のあらゆる試験が同じです。
それに加えてコンピューターの操作技術それ自体も、“やり方を知っていて” かつ “慣れてさえいれば” どんな操作も行うことができるわけです。
ですから、たとえ試験がどんなに高度化しても、“そのことを知っていて” “慣れてもいるけど” それでもやっぱり解くのが難しい、なんて設問はありえないのです。
だとすると、基本試験と高度試験の違いはいったいなんなのでしょう。
可能性1 そもそも知ることができない問題が出る説
可能性の1つとして、知っていれば解けるけど、知ること自体が難しい問題が出ることが考えられます。
知ってる人が少なければ、それだけ正解者数は少なくなりますね。
でもそれは “難しい問題” ではありませんよね。
「知ってるけど難しい」のと、「そもそも解けない」のは違います。
基本情報技術者試験は十分に実用的なレベルの出題が行われるので、基本情報技術者試験ですら出題されないような高度な技術が、実際のビジネスの現場で使用されるなんてあまり考えられません。
高度試験の内容が “知ることが難しい” 問題であるなら、ビジネスで使用することもないので受ける意味はない、ことにもなってしまいます。
ゆえに、『高度試験では、高レベル技術者しか知ることができない出題が行われる』という可能性は誤りです。
可能性2 考慮事項が増える説
それからもう1つの可能性としては、より現実に即した問題が出題されることもありえるでしょう。
つまり、試験は高度化すればするほど、現実のあらゆる事象を考慮しなければならなくなる、ってわけです。
でも、もしその可能性が正しいとすれば、IT試験は高度化すればするほど内容がITと関係なくなっていくことになってしまいます。
ビジネスにおいて、IT技術の存在意義は人間が抱える問題を解決することですから、従ってシステム開発も高度化すればするほど人間としての問題解決力が問われるようになります。
それが試験に出るってことでしょうか?
もしそうなら、高度試験にそもそもIT技術者じゃないと合格できないのは変です。
人間が抱える問題を人間として解決することはコンピューターじゃなくてもできることなので、IT試験は高度化すればするほど非エンジニアの合格率が高くならなければいけないことになります。
ですのでこちらの可能性も誤りです。
だとすると、高度試験はいったい何が難しいのでしょう???
2. 高度な実業家は、普通の実業家と何が違うのか?
新しい事業を次々にヒットさせる凄腕実業家と、一般的な売上額の普通の実業家との最大の違いは、イジメられ慣れてるかどうかです。
世間からイジメられることに慣れており、イジメを受けたときの対処法(と、その対処のための資産)を持っている人が、優れた実業家です。
どういう意味かというと、いわゆる “新規事業” と呼ばれるものは、すでに仕組みが出来上がっている “現代社会” という枠組みの中に、新しい仕組みを捻じ込むことですよね?
新規事業に限らず、既存事業に新しい仕組みを取り入れるときや、既存事業にメスを入れて修正するときなんかも同じです。
そういったものは、今ある社会に新しい仕組みを捻じ込む必要があります。
それゆえ、会社・個人事業主などが新しい事業を始めようとすると、まるで社会全体からイジメられているかのような拒否反応に出くわすんです。
だって新規事業は、ほんの一部とはいえ “既成の物を壊す” のですから。
壊される側にしてみればたまったものではありません。
新規事業に始めてチャレンジする新人実業家には、これが “社会からの一方的なイジメ” であるかのように感じられます。
ですが経験を積んだ実業家からすれば、これはイジメではなく “洗礼” です。
今までの社会の枠組みを壊そうとすれば、必然的に拒絶反応は出るのであって、それはもうどうしようもないことだからです。
たとえば地方出身者が、生まれ故郷の特産品を都心部で売るケースを考えます。
まぁ、商品はなんでもいいんだけど、、、仮にミカンとでもしておきます。
(私の故郷の産地なんですねん。つっても私ミカン嫌いなんだけどね)
で、これをただ普通に売っただけでは、当然ながら売れません。
ミカンという果物それ自体は既存社会にすでに十分にありふれているため、多少美味しいくらいではみんな飛びついてくれないのです。
なぜかというと、ここには行動経済学上のトリックがあります。
一般に多くの人は、
買い慣れた商品の価値と
類似する新規商品の価値が “同一” であれば
慣れてる商品に9倍の価値を感じる
という原則があるのです。
このような心理は、確証バイアスあるいは保有効果などを紐解くことで説明可能です。
ですから単純に考えれば、新規のミカンは、普通のミカンと比べて
“同じ値段で9倍の価値”
がないと売れません。
でも、どんなに高品質な凄いミカンだったとしても、味そのものが9倍美味しいなんてありえませんよね。
だから見知らぬ人が売っている見慣れないミカンは、それを初めて見る人からすれば、既存のミカンの9分の1を少し上回る程度の価値しかないことになってしまうわけです。
新人実業家にしてみれば「新しい高品質な品種なのだから、同じ値段なら自分達の商品の方が売れるはず」なのですから、そこに9分の1の価値しか見出してもらえないのはまるっきりイジメです。
ですから十分に経験を積んだ凄腕の実業家とは、すなわち、このようなケースに巧く対処できる人ということになるわけです。
たとえばミカンを同じ値段で価値9倍に盛る方法というと、たとえば
眺めのいいオシャレなカフェで
チョコレートドリンクと頂ける
キャラメリゼのオレンジ
として、かつそれを既存の価格で売る、といった方法が考えられます。
価値をこれくらい盛れば、さすがに買ってくれる人もいるでしょう。
このようなアイデアを実際に実行できる人を、“イジメへの抵抗力が強い人” と定義することが、今日のポイントとなります。
3. 試験が高度化すると問題が“意地悪に”なる
企業内でより高い地位にいるエンジニアは、当然ながら自分達が作ったシステムが商業ベースに乗ることも考えていかなければいけません。
ですが新規事業にしろ何にしろ、新しく作り出したものは必ず、社会からのイジメという洗礼を受けます。
2つの試験のコンピューターの技術の難易度が同一であれば、より高度な試験ではこのイジメへの対応力がより高く問われます。
それが、高度試験の難しいポイントです。
この “社会からのイジメ” なる謎の現象は、社会の構造から必然的に発生しているだけの、いわば錯覚に過ぎません。
ですが誰かが悪意を持っているわけではないため、理論上ありえるかぎりどこまでも無限に意地悪になっていくのです。
変に意地悪なロジックを解く問題が出る
普通は使わない言葉の意味を、その場で推察させる問題が出る
長い長い文章問題の中から、ただ1つの間違った記述を探す問題が出る
などなど、高度試験の内容はとにかく意地悪です。
ですが登場する知識そのものは、“ちゃんと丁寧に説明すれば”18才になるうちの息子でも理解できる程度の問題しか出てはきません。
これは、基本情報技術者試験でも、応用情報技術者試験でも、高度情報技術者試験でもみんな同じです。
より高度な技術者が、平均的な技術者よりも強く求められる能力は、このイジメに対してITで抵抗する力です。
ですから、問題が多少意地悪でも解けなければいけないのです。
またこの社会にイジメのような洗礼が存在するのが仕方のないことだとするならば、この能力は社会で生き抜いていくサバイバル能力とも言い換えられるのかもしれません。
ビージーズの往年の名曲 Melody Fair では、人生は競争だと歌われていますが、主人公の女の子には、幸いにも見ていてくれる男の子がいました。
でも残念ながら、我々にそんな人はいないのです!
Remember, We are only men なのです!
高度な技術者は、より高度なテクニックを駆使することも大事ではあるのですが、サバイバル能力という意味ではメンドくせぇ連中を何とかする力の方がより重要度が高いんじゃないかなと、私なんかは思うわけです。
ではまた。