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セルフセッション:内観記録日記『寂しさと罪悪感』


ふと、思うこと。この感覚はきっと、ごくわずかの人にしか伝わらないかもしれない。今まで相性がいい!と思っていた現象や人間関係が一機にアップてデートされるとき。その変化に自分が精一杯抵抗していると『ああ、私は寂しいんだなあ…』と切ないような感覚になる。でもこれは、決して、孤独という寂しさではなく、きっと、『いってきます』という温かさゆえの、寂しさであり、感謝なのだと思うのです。


いつも、私は誰かの『先』を歩く。きっとこれからもそうだろう。横で並んで歩きながら一緒に前に進むことを望んでみて、足並みをそろえてみたりしたけれど、いつしかそれが自分に対する“罪悪感”だったことに気づく。足並み合わせないとついてこれないでしょ?といつも後ろを振り返ってはちゃんとついてきてくれているのかを確認しては安心してホッとしていました。


先が読めてしまうからこそ、できる先回りをしては、優越感に浸っていたの。小学生の頃から。小賢しい自分が時には憎いななんて思いながら(笑)いつか先回りが寂しくなり、それ以上先に進む勇気が湧いてこなくなりました。まだ計算しつくて先回りしていたほうが幸せだったかな。


きっとこの『他人に合わせる』という行為はまぎれなもなく『自分を誤魔化している』という証であり、自分を追い込んできた正体なのだと思う。罪悪感はだれにかに対して湧くものではない。自分に嘘をつくから、自分を無理やり説得させて、納得したふりをして、誤魔化すから、罪の意識になることなんだとハッとしたのです。


後ろから追いかけてくる人だけを見ることをやめて、今ともに過ごす人たちや、未来を過ごす人たちに意識を向けてみると嘘みたいに解放されたのです。私が取り残されているのではなく、私は先に行く人だっただけ。細かいことを言えば先も後もないのですが、ニュアンスとしてね(笑)


これは長い間、滞っていた寂しさという感情がすーっと昇華されていった瞬間のお話しでした。ただ、人が離れることを恐れずに、先に進む勇気だけが私に必要だったのだと気づかされました。


本当は、もっとできるのに、相手に合わせるというスタンスで、『もっと』を閉じ込めていると情熱が行き場を失い、人との距離感が遠くなるのです。自由にできないから、誰にも寄ってきてほしくなくなるの。もっと前に先にどんどん進んでよかったのだと思います。人が離れる=人間性がないという思い込みも心に秘めたままだったので、離れたとしてもそれと人間性は直結はしないという結論に至りました。なんだかんだ繋がる人は繋がっているもんです。


そもそも、私たちは出会っても離れていない。私もあなたで、あなたも私。ただそれだけなのに出会って離れて別れるというストーリーを創ってしまう。この幻想に惑わされることなく『私』の人生をしっかりと歩みたいと思います。


ということで、これに気づいて人生がまた一つ自分と『つながり』ました。すると一喜一憂することなく『うんうん、そうだよね』というなんともニュートラルな反応しかできなくなったのですが、決して、冷酷になったわけではございまいせん(笑)大人になった証です♡これからも温かく見守っていただければと思います。


こんな感じで大きな気づきは、内観記事としてまとめてみようと思います♪


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