板橋老師謁見記 2

道元禅師から数えて四祖にあたる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師は、今日の曹洞宗発展の礎を築いた方で、太祖と尊称されている。その瑩山禅師誕生の地に建てられたのが御誕生寺である。

「ごたんじょうじ」と読むが、「おたんじょうじ」とも呼びたくなる。そうなると、私には不思議な感覚が呼び起こされてしまう。というのも、わたしの田舎の地名は、宮城県色麻(しかま)町の王城寺(おうじょうじ)と言うところで、その響きがよく似ているからだ。「往生寺」と言うもともとは浄土宗のお寺がその地名の由来である。今は曹洞宗(總持寺系)のお寺になっていて、祖父以来、付き合いが深いのである。

さて、御誕生寺に戻ろう。
「さあ、お入りなさい」という声が奥からして、部屋に入ると、禅師はソファーに座っておられた。低いテーブルをはさんで向かい側のソファーに座るようにうながされた。
ちなみに曹洞宗では、永平寺や總持寺の貫首になられた人は特に禅師とお呼びするようである。禅師というのは、本来天皇から特別に贈られる諡号(しごう)で、たとえば白隠禅師なら、神機独妙禅師という禅師号が贈られているのである。
板橋禅師は正式には、閑月即真禅師とお呼びするのが正しいようである。

その禅師様に、まずは自己紹介である。
思わずソファーから降りて、狭い所に正座し、テーブルに両手を付いてご挨拶した。
「そこは坐る所じゃないんだから、まあおかけなさい」と、笑っておられる。ごもっともなことである。
「いったいワシのことをどうして知ったんだね?」
「はい、実は輪島に、」
「うん。輪島に?」
「市堀和尚様という方がおられますね。」
「おお、おる。で?」
「実はあの方、インターネットでブログというものをやっておられまして、それをいつも拝見しているのです。そこで禅師様のことを教えていただいたわけです。俳句もたくさん発表しておられますね。」
「おお、そうだったか。いや、あいつは変わった奴でなあ。しかしあの男が俳句をやるようになるとはなあ。そういえば明日ここに来ると言っておったぞ。」(市堀老師、ごめんなさい)
ブログとは何であるのか、ご理解しておられるかどうかは不明であった。いわんやフェイスブックにおいておや、である。
「御誕生寺にもホームページがございますね。」
「ああ、ワシは見たことがないんだがな。ワシに扱えるのは、これくらいのもんだ。」
と言われ、何かのリモコンを手に取って笑われた。

「実はつい先日、『猫のように生きる』という禅師様のご本を読みまして、それで感動いたしました。ぜひ一度お訪ねしてみたいと思いまして、そうして千葉の成田からやって参りました。」
「ほおー、千葉から」と驚いておられる。
「しかしあれは、ついこの間出したばかりの本なのだが。」
「成田の本屋に出ていましたので。」
「ほおー、そうか」

「実は私は、宮城の出身なのです。」
「なにやぁ」
(宮城の方言で、何だって?、というほどの意味。訛っている人は、なぬやぁ、と言ったりもする。)
「仙台の輪王寺のやっている幼稚園がございますが、私はそこに入れられていたことがあります。」
「なにやぁ。ワシが初めて坐禅した寺じゃないか。」
禅師は戦後復員してから、大学に入学されたが、ノイローゼのようになって悩まれていた時、ご縁によって、輪王寺で禅に出会われることになった。そこで出家の道を歩まれる決心をされたのである。

禅師様と不肖わたくしは、不思議なご縁によって幾重にも連なっていて、それをお聞きになると、一々に目を丸くしておられるようだった。
輪王寺は曹洞宗なのに、その当時のご住職は、臨済宗の三島・龍澤寺の玄峰老師のところに参禅に来ておられたことがある、ということも不思議である。禅師ご自身も、龍澤寺で中川宋淵老師にお会いになったことがある、と言われた。
また禅師のお師匠様である渡辺玄宗禅師は、円覚寺で七年半も悟後の修行をされている方である(宮路宗海老師の頃)。円覚寺の冊子は今でも禅師のところに送られてきていて、毎回ご覧になっているとのことである。全く以って驚くほかはない。

私の母方の祖父が、能登島の出身であることを申し上げると、禅師はますます興奮して言われた。
「ワシは寺をここに建てるのでなかったら、能登島に建てたいと思っていたのだ。よし、あなたが出家して、能登島に寺を建てなさい(笑)」

こんな調子で、禅師様と私は話し始めたのだった。

(ALOL Archives 2013)

御誕生寺の猫たち

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