板橋老師のぐうたら禅 2

高名な禅師様をつかまえて「ぐうたら」と言うのも気が引ける。しかしご自分で言っておられるのだから仕方があるまい。
前回ご紹介した禅師様のぐうたら振りなど、身近なお弟子さんたちにとっては、何もあんなことまで書かなくても、と恥ずかしく思っておられるかも知れない。尊敬する師匠に対しては、どこまでも美しく思っていたいのが世の常の人情だからである。宗門内にもあるいは苦々しく思っておられる方がおられるような気がしないでもない。
私のように距離がある人間にとっては、こんなことも平気で書けるということなのだろう。距離感があったとしても、私にとっては非常に身近に感じられる禅師様ではある。
あの和顔、親しみやすいお人柄はいったいどこから生まれ出てきたのであろうか。あの比類なき研ぎ澄まされた見地は、どのようにして養われてきたのであろうか。
私にはこのように思われる。禅師様の悟りは、無理な修行や苦行によって歪められ損なわれたものではない、と。そのような人為の罠からすっかり抜け出たのが、禅師様の立っておられる自然法爾(じねんほうに)の地点なのではないだろうか。そこには、いかめしく構えているものがひとつもない。そして青春の質・若者の質をいつまでも持ち続けておられる。常にあらゆるものに開き、あらゆるものに好奇心を持っておられるように思う。人々にひっそりと寄り添い続けることができるのも、このような質のゆえなのではないだろうか。

「猫は悩まない」の中で、禅師様が丹田呼吸について語っておられる箇所がある。
【p38~39】
 腹の底から深い息づかいをしていると、しゃくにさわったり、くよくよした気分もいつの間にか、なくなります。そこが不思議です。しゃくにさわったとき頭であれこれ考えると、考えただけ暗雲が広がります。しゃくにさわったときは身体で感じたままでいる。「悲しい」は、悲しいまんま、「面白くない」は面白くないまんまにしておくことです。それを頭に訴えない。考えこまないことです。人間的な喜怒哀楽のすべてを、軒先に下がっている風鈴のように、チリンチリンと風のままに受け流していることです。ここに人生の秘訣があり、また仏道の極致があるのです。
 吸い込んだ息を下っ腹から少しずつ吐いているときには頭の中で考え事ができません。小石が落ちて水面に波紋ができたとき、波紋をそのままにしておくと、必ずそれなりに落ち着くものです。静かにならなくても、それを気にしないことです。渋柿が甘柿になるように、しゃくにさわったことが、いつの間にか、心からのほほ笑みになるのです。【引用終】

何だこんなことか、と思われるだろうか。
これは瞑想に関わった事がある人なら、寒毛卓竪(かんもうたくじゅ)するような話であるかも知れない。
仏道の極致とは何ぞや?・・・チリンチリンチリン。

(ALOL Archives 2013)

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