喝・無時間性・超越の原理
臨済の喝という言葉があるように、臨済宗の人はやたらに喝を叫ぶものであるらしい。
興禅護国会(坐禅会の名前)が茗荷谷の徳雲寺で行われていた頃、師家は中島安玄老師であった。
当時公案に行き詰っていた私は、自分の打開点を探らんと、ある夜独参したとき、老師に向かって一喝を吐いたことがある。
都心・文京区のビル街の一角にある小さなお寺である。お寺の中はおろか、ビル街の壁にも木魂するような喝であったかも知れない。禅会の参加者の方々はもちろん、お寺のご住職や奥様も何事かと驚いたのではなかっただろうか。ご迷惑を承知で叫んだ喝は、もちろんこの一回きりであった。(毎回やっていたら追い出されていただろう) 「東京の中心で喝を叫ぶ」である。
ある先輩は「ほおー、よくやったな」という顔で私を見たが、別な長老の方は「そんなことはやるもんじゃない」というような渋い顔をされた。
しかし何もこんなことが禅ではないのである。
ところで以前に私が面白半分に、坐禅方程式(P=k・E/T)なるものをご紹介したのであるが、ここから時間要素だけを取り出してみると、
1/ΔT→∞ という式を考える事ができる。
ΔT(デルタT)は、ごく短い時間・瞬間を表わしている。この瞬間に要する時間が極小であればあるほどに、そこで発揮されるエネルギーは極大になる。それは無限大へと広がってゆく。この式は、機鋒峻烈と読める。ごく一瞬のうちにエネルギーが爆発するのである。
私はこの式を、喝の方程式、あるいは前後際断式と呼んでみたい。(あまり本気にしないでいただきたい)
禅のこのような側面が、武道と結び付いてゆくのは必然であるように思われる。常に一瞬のうちに命のやり取りが行われる場、死が目の前に迫っている場、そこで求められるのはこのような質以外にはあり得ないだろう。
しかしそもそも、臨済禅師のこのような機鋒の激しさは、いったい何の故なのであろうか。
以下は私の勝手な想像(妄想)である。
臨済禅師という人は元来、非常に知的な方であって、若い時には経や論を相当に研究してから、禅の道に入ってこられた。この知性的な面が、精神を非常に不安定なものにしていたことが想像される。こう言っても良いのであれば、心が多分に病む傾向にあったと。そこから何らかの打開点を見い出そうとするとき、あの喝、1/ΔTの爆発となって現れたのではないだろうか。
これは全く私自身のことを言っているにすぎない。祖師を自分のレベルまで貶めたとの謗りをまぬがれない。
今回もトンデモ話になってしまった。冷や汗がしたたり落ちてくるようである。
(ALOL Archives 2013)
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