地獄は一定すみかぞかし
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひと(師・法然のこと)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり
念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ
そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。
いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
歎異抄 二 より
※
常陸の弟子・唯円が、師・親鸞のことばを編んだ「歎異抄」、その中の有名な一節である。
「とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」
最後の「かし」は、強意の助詞である。
どうあっても、地獄は定まって、わが住処であるのだ、ということになる。
信頼する師・法然の教えであるならば、たとえ騙されて地獄に落ちたとしても、後悔はない、というのである。何かの修行をして仏になるべき身ならばまだしも、罪業深重、最低最悪のわたしであるならば、そもそも地獄にあって当然なのだ、と述べているようである。
普通ならば、善意であれ悪意であれ、間違った教えによって地獄に落ちたならば、とんでもない師だと言って、われわれは激しく弾劾するはずだ。しかし親鸞さんは、厳しい自己省察と自己責任を貫いている。師の法然をただ信頼するばかりだ、その教えが浄土に導くのか、地獄に連れて行くのか、わたしには一向にわからない、それほどの信だというのだろう。
その信は見上げたものだが、しかしここには、かなり危険な思想が潜んでいるようにも思われる。ヘタをすると昨今のカルトのようにさえ見えないでもない。この信は、常人離れした、そして常軌を逸したものであるかも知れない。
そしてこの異常なまでの誠実さと純粋さがまた、親鸞さんの魅力になっている。こんな人に会ったなら、我々は頭を垂れざるを得なくなる。どこにでもいるような計算高い利口者ではないからである。
どうにもならない最悪で最低辺にいるわたしのような者でも救われる道があるのか?ここに、親鸞さんの探求がある。そして人々への慈悲心がある。
摂取不捨(せっしゅふしゃ; なにものをも抱き取って 切り捨てたりはしない)の弥陀の本願とは、そのようなことであろう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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