板橋老師のぐうたら禅 3
「猫は悩まない」よりの引用です。【p146~147】
悲しいときは悲しい。嬉しいときは喜ぶ。甘いものはあまい、ニガいものはにがい、これが自然です。ただそれを頭の中で問題にするかどうかですね。頭の中でぐちぐちと考えて、考えても仕方がないと知りつつもそこから抜け出せない、これを煩悩というのです。修行とは何か。ごく自然になることです。いつも、からだ全体でわかっている。首から上に問題としてとりあつかわないことです。頭の中を風通しよくして、全身を生命反応体として、その時その場にフル回転している、これが仏道の全体です。例えばチリンチリン鳴る風鈴のように、ごく自然な反応体になっているのです。・・・
しかし反応体になろうとしてはだめです。自分から意識的にしようとすることをやめて反応体になっているのです。そうすると、面白い、愉快、楽しい、腹減った、腹いっぱいだ、そのことに対してとやかく考えなくなる。それ以外に、仏道はありません。ごく自然ということですね。でもこれがなかなかむずかしいのです。自然を意識した自然ではまずい。この機微を体得することを修行というのです。【引用終】
猫をはじめとする動物と違って、人間だけが言葉を持ち、そしてそれによって考えるということを覚えた。脳がそのように発達し、膨大な知識を自由に扱う事ができるようになった。これが人間が人間たる所以だろう。そこに文明が生まれ、今日の科学技術の発達にまで至っている。
考えるということの本質は何なのだろうか。それは技術的な分野においては不可欠で役に立つものである。
しかし考えるということによって、自己が自己を知るということが可能だろうか。質問を変えると、考えることによって、人間はその暴力性を克服することができて来ただろうか、そして今後できるだろうか。・・明らかにできないのである。
瞑想や禅はそこのところを問題にしている。
思考とは脳の機械的な働きであり、それが言語を通してのものであるということはとどのつまり、0と1からなる(二進法の)記号だと言ってよい。その記号の操作が思考であるのだろう。記号であるということは、それは現実から遊離したバーチャルなものだということだ。人間は実相世界の中にいながら、虚構の世界との間を行き来している。ほとんど夢を貪って生きていると言ってよい。その虚と実との間にどのように折り合いがつけられるのだろうか。
考えるということは人間の偉大な特性だが、それは諸刃の刃であるという宿命を負っていることを忘れてはなるまい。
もう一つだけ引用してみたい。【p138】
・・・こうすればこうなるんだという論理性で物を考えることを覚えた。そこから人類は文明を開拓し始めたのですね。それが現代は日進月歩で栄えております。私たちはそのお陰で快適な文化生活を楽しんでおります。しかし、人類が身につけた頭脳でつくり上げた物質文明によって、人類は衰亡の方に向かうと私は思っております。そう思えて仕方ないのです。世の中が豊かになり、物があふれるようになればなるほど、犯罪や精神異常者や自殺者が多くなるのはその兆候の一端です。この傾向はますます進みます。頭脳によって築きあげた文明によって人類は崩壊してまいります。そこを人類はどう軌道修正できるでしょうかね。
そこで今後大事なことは、人類にとって最高の知恵は「節制」だと思います。コントロール。きりをつける、けじめをつける意志力ですね。これは個人にとってはもちろん、社会にとっても同じです。個人ではできる人がいるでしょうが、国全体となると難しいと思います。【引用終】
わたしが禅師様にお会いしたときも、やはりこんなことが話題となったのである。そして話は、千日回峰行の塩沼亮潤阿闍梨さんのことに及んだ。
「実は昨日、阿闍梨さんに手紙を出したところだ」と仰っておられた。
ぐうたらを自認する禅師様にとって、この阿闍梨さんは全く対極におられる方であると言えるかも知れない。それだけに禅師様は、非常な興味と敬意を抱かれたらしい。それで後に対談したものが本にまでなっている。(「大峯千日回峰行」塩沼亮潤X板橋興宗)
禅師様が興味津々、質問して行くという体裁になっている。しかし私が思うに、この対談によって若い阿闍梨さんは、かえって禅師様から多くの洞察を得ることができたのではないだろうか。
近々私も、阿闍梨さんを宮城にお訪ねしてみたいものだと思っている。
(ALOL Archives 2013)